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2007年5月20日 (日)

「異国」

故郷への想いを露骨に歌った曲です。
帰りたい/帰れないと、愛している/愛されないの二つのジレンマから発する情念は実に強力で、切なさを通り越して憎悪とか執念とよぶべき感情と化しています。最後のリフレインではその執念に自ら悶え苦しみ、苦しみながらもなお求め、ついに満たされることはありません。
「異国」とは、ジレンマのみならず、それを消化できない苦しみ、そのまま消えていく悲しみを表しているかと思います。

と、解説風に書きましたが、実のところ筆者にはピンと来ない歌であって、何故ここまでの執着が生まれるのか、気持ちとしては殆どわかりません。
思うに、望郷とは本能のようなもので、詞中にも何度か出てくるように死を意識する時にはじめて強く思い起こされるのではないかと思います。

2007年5月13日 (日)

「エレーン」

と思ったら、どんより。かなりどんより。

他人と同じ気持ちを共有するというのは、それが本当に同じ気持ちかどうかは置いといて、快感です。ましてその気持ちが悲しさや淋しさであれば心が締めつけられるような甘美さを味わうことができます。

この曲では、「おまえの淋しさが聞こえる」、「淋しさだけが真実だったと思う」という詞から、主人公にも素地として淋しさがあることがわかります。その感情がふとしたきっかけでエレーンへの同情の形をとって急激に溢れるとき、その感情は圧倒的でとめどなく、制御不能のものだと思います。

同情は一種の驕りです。この曲はおそらくそのことも踏まえた上で、身も蓋も無くエレーンに同情して「エレーン―」と叫びます。その叫びは必ずしも聴く人に好ましいものでは無いながらも、圧倒的で、曇天の雷鳴のように聴く人を打つのだと思います。

2007年5月 6日 (日)

「」

初のインストルメントは題名もついておらず、盛り上がりも、落ちる部分も無いまま1分そこそこで終わります。
歌詞の解釈もできないので感想が大変書きづらいのですが、強いて言えば1分で終わって良かったと思えるほどに苦しく、不明瞭な雰囲気の曲で、暗い夢の中をさまよっているような印象を持ちました。

ぼんやりと聞いていたら、うっかりと次の曲のイントロまで聞いてしまったのですが、そのつなぎに違和感を感じなかったことからも、独立した曲と言うよりは次曲の導入という意味が強いのではないかと思います。

どんよりしたインストルメントの次は意外に鮮烈な曲が来るのではないか、と予想しつつ次曲を待ちたいと思います。

2007年4月29日 (日)

「船を出すのなら九月」

「あなたがいなくても愛は星のようにある」という言葉は、振られた側が言えば負け惜しみの言葉であり、多分に未練を残している様子を想像できますが、もし振った側が言ったとするなら戦慄するほどに冷たく突き放した言葉であり、確かに何かを捨てようとしているように聞こえます。

この曲は素直に聞いたら前者だと思うのですが、中島みゆきの歌は時にひどく冷めきっており、この曲も詞の随所に冷たさを感じます。何度も聞いているうちに後者のように思えてきて、局外に立って聞いているつもりの筆者ですら、寒々しい気分になってきました。

どちらの解釈が正解ということもないはずですが、思えば振った振られたがはっきりしている別れなどむしろ少ないのと同様、この言葉もどちらかと断定できるようなものではなく、未練と冷めた感情が交錯しているのではないでしょうか。

或いは、九月とは未練という熱が冷める時期を指し、冷めゆく心とその悲しみを描いた曲のようにも思います。

2007年4月21日 (土)

「蕎麦屋」

感想を書いても仕方ないと思えるほど現実味がある曲で、無論歌であるからには事実ではなくて情景を述べているわけですが、ここにあるのは劇的な場面でも、特別な感情の高まりでもなく、大変静かな時間の経過であると思います。

「べつに今さらお前の顔見てそばなど食べても仕方ない」という詞の通り、歌中で傷心が癒されることも、新たな恋が始まることも(多分)なく、言ってしまえば特別なことは何も起きません。
それでいて心が動く瞬間はあるわけで、それによって救われたとか気が晴れたとかいうことは無いにせよ、優しい心遣いや気持ちの交差がささやかな山場として描かれ、静かな時間の流れの中で微妙な甘味(塩味かも)として作用していると思います。

冒頭でも述べたようにそれだけのことで、「だから何?」と言われると非常に困りますが、現実ってそんなものではないでしょうか。

2007年4月15日 (日)

「キツネ狩りの歌」

キツネ狩りに特に興味も知識も無い筆者は、キツネ狩りのカタルシスも、こめられた暗喩もよくわかりません。それは筆者に限ったことではなく大抵の日本人がそうではないかと思うのですが、何故またキツネ狩りという題材なのでしょうか。

曲が作られた背景を全く知らずにわかったようなことを書くこのブログの筆者が強いて想像するなら、外国童話風の幻想的で残酷で皮肉が利いた曲を作ってみたかったのではないか、と思います。
キツネ狩りという馴染みの薄い題材を使い、明るい曲調にのせて悲惨な言葉が流れる様はシュールですらあり、理解不能なものを見てしまったような不気味さと不安感を抱かせます。

それ以上はわからないし、追求する気もないのですが、この曲は童話風の衣に真意を包んで、聞く人間の想像を膨らませようとする曲ではないかと思いました。

2007年4月 8日 (日)

「泣きたい夜に」

既に泣き疲れたかのような力の抜けた歌声が、張り詰めすぎて爆じけた前曲の心の空白に沁みてくようです。

泣きたい夜はあたしのそばにおいでという言葉は、泣きたいのは「あたし」とも取れるし、泣きたがっている誰かに呼びかけているとも取れますが、どちらにせよ疲れ切った人が誰かにもたれかかるような快感と依存があり、見栄や強がりを保てないほどに弱まった心を表していると思います。

前向きなわけでもなく、希望があるということもない暗い曲だとは思いますが、それだけに純粋に癒しの曲でもあると思いました。

2007年4月 1日 (日)

「うらみ・ます」

解説するまでも無い事ですが、恨みも未練の一種であって、「うらみますうらみます あんたのこと死ぬまで」は永遠の愛の宣言に似ていると思います。
純粋でひたむきで切実な想いが行き場を無くし、狭い心の中で圧縮された挙句に爆発したという印象ですが、爆発して飛び出した感情はその一方的な勢いと攻撃性からやはり「愛」とは呼ばずに「うらみ」と呼ぶのが相応しいと思います。

しかし、激しい恋に浮かれあがって「一生愛している」と口走っても何の根拠も無いのと同様、その時どれほど恨んでいても一生恨み続けられるかは別問題であると思います。
この曲は「うらみ・ます」という重いタイトルとは裏腹に、圧縮され、爆発し、激しく華やかに燃え上がる「うらみ」を描く刹那的な曲であると思いました。

ところで、この曲は振られた時に聴いたらシャレにならないと思いますが、平常時に聴くと(つまり筆者が聴いたときは)感情の噴出のあまりの勢い良さが「悲しさ」や「深刻さ」を通り越して「笑い」の域に達してしまい、妙に盛り上がる後奏と相まって不思議な笑いを起こしてしまいました。
極端な物に接すると笑いが起きてしまう、というだけのことで深い意味はありませんが、爆発力を持った非常にエネルギーの高い曲だと思いました。

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