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2006年11月 5日 (日)

「世情」

全くの個人的イメージで恐縮ですが、シュプレヒコールって壇上の指揮者だけが血相を変えて叫ぶ傍ら、周りは申し訳程度にへろへろと拳を上げて合わせる、という貧困なものであると認識しています。若し全員が絶叫していたとしてもそれは本心からのものなのかとかなり疑問に思っています。

会社の研修所で営業系の研修室からたまに絶叫のような掛け声が聞こえてくることがあります。その度にこの人達は妻子を食わせるために心からでもない叫びを叫ばされているんだなあと思い(これも勝手なイメージですが)、切ないような虚しいような不快な気分になります。要するに筆者は自発的に盛り上がったシュプレヒコールというものを見たことが無く、常に上から「これを唱えろ」と命令されて行うものだと思っています。

このイメージと「世情」は必ずしも合ってはいません。さらに、この詞を解釈するためにはこの曲が作られた頃の世情を理解していないと困難なように思います(正直に言って筆者はこの詞において、誰が誰と戦おうとしているのかよくわかりません)。

ただ、少なくともこの曲はシュプレヒコールを好意的には見ていません。かと言って世の中を肯定しているわけもなく、どちらにも乗り切れない居心地の悪さを感じました。

世の流れには乗れない、かといってそれを妨げる勢力にも違和感を感じる。斉唱という形をとりながら、むしろ混ざりきらない中島みゆきの声が世情との違和感を表しているように感じました。

2006年10月29日 (日)

「おまえの家」

暗いと言えばどこまでも暗く、前途に何か明るい希望が見えることも無い。かといって絶望に慟哭するわけでもなく、むしろほっとするような落ち着きがある。日陰のような安心感がこの歌にはあるような気がします。

詞の内容をことさらに整理してしまうと、ふと訪ねた「おまえの家」が昔と変わってしまったと思い、もう帰ろうと思ったその帰り際に「おまえ」が昔と変わらぬ顔を見せた、というだけの情景です。

その事実の何が悲しいのか、理屈をつけてもしようがないことですが、悲しいとは何かを失った時に生じる感情で、安心とはよく知っている何かを見つけたときの感情です。

おそらく変わってしまった「おまえ」を見たときには漠然としていた気持ちが、変わらぬ顔の「おまえ」を見たときにはっきりとしてしまい、悲しさと安心感が同時にこみ上げてきたという複雑な感情の歌だと思います。

その感情を淡々と暗いトーンで包みこんでいるため、とても不思議な聞き心地です。思うに日陰の優しさとは剥き出しにするには辛い気持ちを覆ってくれるものではないでしょうか。

などと、やや詩的にまとめてみました。

2006年10月21日 (土)

「あほう鳥」

感想を書く糸口が見つからないままアホウドリについてネット辞書で調べてみると、どうやら「あほう鳥」はアホウドリ科アホウドリのことでは無く、文字通り阿呆な鳥という意味で使っていると思えてきました。

筆者は鳥は薄情であるというイメージを持っています。それは例えば、鳥類一般の無表情さだとか、巣から落ちた雛鳥を見捨てる酷薄さだとか、それら偏見の集合によるものに過ぎませんが、やはり犬や猫のように情緒を通い合わすことは難しく、「他人」であると思っています。

この曲は過去を忘れようとする自分をことさらに「あほう鳥」と呼ぶことで、自分の薄情さを自覚しつつ、もう他人であることを宣言し、過去への未練を断ち切ろうとしていると感じました。

「あんたが好きだった」の「た」で切れるメロディーが、「あんた(とあたしの人生)」を過去へと切り離す瞬間のように聞こえました。

2006年10月14日 (土)

「ミルク32」

それから時間が経ったのか、丸くて少しだるい歌声が、角はとれつつも凹凸が残った心の鈍い痛みを表しているかのようです。

多分ミルクは「あたし」にとって主役にはなり得ない人であって、それだけに傷心には優しい存在になり得るのだと思います。ただ、付き合って飲んでくれるだけで可笑しさがこみ上げてくるような。

この曲はそんな脇役にスポットを当てて歌っている点が面白いと思います。「ミルク もう 32」はミルクへのちょっとした愛情とユーモアが込められている、と筆者は思います。

きっとミルクは昔の仇名を連呼されて、辟易していることでしょう。

2006年10月 8日 (日)

「化粧」

メロメロです。こんなメロメロな曲は久々に聞きました。

振られるというのは一種の敗北だと思うのですが、この曲では敗北に伴う劣等感と、劣等感をどうにかしようとした挙句に自責や自虐に至る心情が剥き出しに描かれています。

「愛してもらえると思っていたなんて、バカだ」という論理は繰り返す内にいつしか「私はバカである」に変わり、さらに「バカのくせに愛してもらえるつもりでいた」という自虐に発展します。この自虐は最初の論理にまたつながって延々と繰り返されます。

このループは傷ついた心を癒すために自己がつくりだした幻影に過ぎず、その論理は発熱して寝込んだ人間のうわごとの如く、根も葉もないものです。

しかしながら、本人にとっては最も苦しい時期であり、朦朧とした意識で吐き出す言葉は心に渦巻く感情の内、最も切実な何事かを掬い出していると思います。

この曲は振られた人間が辿る過程の中で、最も恍惚として、辛い時期を見事に切り出していると思いました。

2006年9月30日 (土)

「海鳴り」

寂しさを前面に出した曲です。地味なアルペジオが切々と流れ、誰がどう聞いても間違いなく寂しい曲だと思うはずです。

ここに来て寂しいのはもはや前提条件であって、それをどう慰めるかに軸足が移って来たように思います。

海鳴りは寂しさを慰めてくれるものではなく、むしろ寂しさを増幅していると考えられますが、その海鳴りにすら「また お前と 私が 残ったね」と呼びかけるのは囚人が看守と仲良くなろうとするような心理でしょうか。

「また お前と 私が 残ったね」は「私だけがとり残された」の別表現ですが、そう露骨に言ってしまうのが耐え難いが故の表現で、海鳴りによって増幅された寂しさをどうにかやり過ごそうとする苦し紛れの台詞であると筆者は解釈しました。

ところで筆者は海に遠いところで生まれ育ったので、海鳴りの寂しさが実感として解りません。海に近い人なら海鳴りに枕を濡らすことは一度や二度ではないのでしょうか。

2006年9月23日 (土)

「わかれうた」

初心者の筆者でもどこかしらで何回か聞いたことがある有名な曲です。

前奏も間奏も後奏も同じフレーズのリフレインで歌の部分もほぼ同様の単純過ぎるといっても良いほどの曲です。歌詞もほぼ完璧に節に乗っていて対句が多く、非常にスムーズに頭に入ってきます。

それでいて飽きが来ないのはちょっと極端なほどネガティブな歌詞がアクセントになっているせいか、「誰が名づけたのか~」のくだりが中島みゆき自身を語っているようで新鮮なせいか(その点は「元気ですか」、「怜子」の方が衝撃的ですが)、またそれらを歌う中島みゆきの歌詞一つ一つに対する表現力が秀逸なためか、結局のところシンプルさと奥深さが両立したヒットするに相応しい曲だと思いました。

ついつい「怜子」の続きとして聞いてしまうとこれまでの流れに止めをさしているようにも聞こえます。これまで錯綜した人間関係(といっても3人しか出て来ませんが)と屈折が屈折を呼んだような複雑な感情に閉塞感を感じましたが、この曲ではひたすらに「私」を歌い続け(歌詞に「あなた」は出てきますが単に対句として「私」との対照に使われているだけのように感じました)、サビの「いつも目覚めは独り」ではむしろ複雑な人間関係からの開放と自由を感じました。こんなのは筆者だけでしょうか。

ともかくも、止めをさしたといってもまだ3曲めなので今後どういう展開になるか楽しみです。(ストーリー仕立てになっているわけでは無いでしょうけど)

2006年9月17日 (日)

「怜子」

盗賊さんの言う通り、前の詩から続いている曲のように聞こえます。この2作品の基になる感情が同じだとしたら、節がついて歌になると随分と聴き心地が変わるものだなと思います。「元気ですか」では生々し過ぎる感情をどう受け止めたらいいのか困惑しましたが、この曲ではメロディの分だけ感情が美しくなったというか、ドロドロと地を這っていた嫉妬や羨望の想いが少しだけ浮き上がって結晶化したように感じました。

「怜子」というタイトルですが、ひとつは固有名詞を用いることでその人への特別な感情を表すという意味があると思います。ただ聞き手は怜子その人を知っているわけではありませんので(実在の人か知りませんが)、怜子像を歌詞の端々から想像するか、知っている誰かを当てはめて思い浮かべるかと思います。

これが「東京タワー」だったら、それは通天閣でもエッフェル塔でも無く東京タワーしか指さないわけですが、「怜子」は愛子にも順子にもなり得ます。この歌に限らず詩中に人の名前が出てくると感想は聞き手の環境に委ねられる部分が大きくなると思います。この曲に思い入れのある中島みゆきファンは結構多いのではないかと想像します。

そんな訳でファン暦10年の盗賊さんもこの歌を聴くとき「○○○ー!(自主規制)」と脳内で変換しているのではないのでしょうか。盗賊さんは男ですけど。

2006年9月10日 (日)

「「元気ですか」」

また、のっけから泣きそうな気分になりました。

しかし、これは決して中島みゆきの気持ちと同調したわけではなく、「もう勘弁してくれ」と言いたくなるような否定の気分です。「わかってる」「わかってる」と連呼される度に「じゃあ、かけてくんな」と叫びたいような気持ちになります。

この詩における「あたし」と「あいつ」の関係もこんな風ではないかと筆者は想像します。気持ちがすれ違っているとかではなく、直接「あいつ」に電話をかけたら明白に否定される、そんな間柄ではないでしょうか。

そこで、「あたし」は「あいつ」にではなく「あのひと」に電話をかけます。これは臆病で、しつこい上、嫌らしくもある行動です。しかし切なくてどうしようもない気持ちの発現でもあり、この詩はそんな自己制御不能な想いを描いていると思います。

しかし、筆者はやはり「あいつ」に同情してしまいます。多分炒られるようないたたまれない気持ちではないかと。さっきから延々とこの詩をリピートで聞きながら(そんな経験はないのに)筆者もややそんな気分になりました。

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