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2007年11月25日 (日)

「ファイト!」

筆者はかねがねこの曲における「ファイト!」という掛け声の部分が非常に素頓狂で調子っ外れで、それまでの深刻な曲の進行とその後の感動的な展開の間になんの脈絡も無く存在しているように思えて、一種、不思議な異物感を抱いていました。
が、改めて(初めて)家のコンポでゆっくりと聞いてみると、「ファイト!」はやや唐突ではあるものの決して調子外れでも頓狂でもなく、また、文章の流れからいっても不自然なフレーズでは無い、と思い直しました。
何故冒頭のような印象を持っていたかとあれこれ考えてみると、どうやら単に盗賊さんのカラオケの「ファイト!」の調子外れの印象が第一にあったからだということに気付きました。

それでも、そうやって冷静に聞き直して頭で認識し直してもなお、未だに筆者の心象では「ファイト!」はシュールな位の異物感を保っています。
不自然とまでは言わないものの、それまでのシリアスな流れを無責任と思えるほどにぶった切っていますし、むしろ無い方が文章としても歌としても整うように思います。
また、「戦う君の唄を 戦わないやつらが笑うだろう」という非常に尖った上に、幾重にも読み取ることができる深いフレーズに比べても、流れに逆らう魚達の感動的な姿と比べても、いかにもあけすけで単純であり過ぎ、これらの前後に嵌る言葉として適当とは思えません。

思えば「ファイト!」というフレーズはあまりにストレート過ぎて盗賊さんでなくても技巧的に歌えるものではなく、中島みゆきのですら一種の照れのようなものが入っているように感じます。実は「ファイト!」はこの歌における最も必死で生々しくて人間臭い部分であり、このフレーズ抜きには詩の完成度があがったとしても単に陰気な曲として印象が残るだけのような気がします。
筆者が思うに、中島みゆきは「ファイト!」と叫ぶことで詩としての完成をむしろぶち破ってでも、この歌をより人間らしく、私たちの身近に置こうとしているように思います。

2007年11月18日 (日)

「金魚」

やたら長い前奏とやたら短い本文で、あれれと思う内にいつのまにか終わってしまう曲です。それでいて人生とか幸せとか、たかが金魚でそこまで思わなくてもいいじゃないか、と言いたい位に心の深みへと一気に落ち込んでいきます。

「でも嬉しいみたい」という台詞は一体だれが嬉しいのか、金魚をすくえなかったことは誰にとっても嬉しいことではなく、「どうせ飼えない」は単に金魚をすくった後に生じる付帯条件であって、嬉しいの理由になるわけではありません。
よって「嬉しいみたい」はあくまで「みたい」であって、「嬉しい」わけではなく、金魚をすくえなかったという事実をどうにかしてプラスにとらえるために頭であれこれと考えた挙句の結論で、言ってしまえば負け惜しみに過ぎないように思います。

手の届かない幸せを思い浮かべながら、それでも自分達のことを「嬉しいみたい」と言うのは、それこそガラス箱のむこうの世界を想像するような悲しさと虚しさがあると思います。
タイトルが「金魚すくい」ではなくて「金魚」なのも、そんな心境を金魚に重ねているのではないかと深読みして、感想としたいと思います。

2007年11月11日 (日)

「テキーラを飲み干して」

そうだ、やけ酒を飲もう。という気分にさせてくれるこの歌は、すでに出来上がったような雰囲気で「テキーラを飲み干して」を連呼し、まさしく飲んだくれと呼ぶに相応しい歌のように思います。

よくよく歌詞を反芻してみれば、6年も(勝手に)想っていた相手が身を固めるという重大な情報さえも風の噂で聞くという体たらくぶりで、全く相手にされていない様子が窺えます。「短かった幻の日々」も本当に幻で、そんなものは最初から無かったのではないか、とすら思えてしまいます。
そんな状況では「こちらから Say Good Bye」するのも当然の話で、こちらからも何も、相手はこっちのことなど眼中にないのだから、結局「あたし」は自ら終わりを告げる以外に始末のつけようが無いのです。それでも「こちらから Say Good Bye」と歌うことで、最初から最後まで自分の空回りだったということを敢えて強調し、虚しさと悲しみをいや増していると思います。

そして、以下こじつけですが、「テキーラを飲み干して―」を繰り返すことで、結局「Say Good Bye」ができず、延々テキーラを飲み干している情景を描いていると思います。
結局、テキーラを飲み干して別れを告げる曲ではなく、延々と空回る気持ちと共に延々とテキーラを飲み干し続ける曲のように思えるのです。

2007年11月 4日 (日)

「縁」

縁と言うのは割合便利な言葉で、道端で友人に会ったような場合にも「縁があった」と使うことができますし、逆に物事が上手く行かなかった場合に「縁がなかった」と言えば誰が傷つくことも無く、縁がないなら仕方が無いか、という気持ちになることができます。
「縁」はその正体は不明ながらも日常的な扱いやすい言葉として「運命」の軽い版のようにして使うことができます。

しかし、この曲の重厚な雰囲気から発せられる「この縁はありやなしや」という問いかけはとてもヘビーで、むしろそう問いかけながらも、到底縁で片付けられる気持ちではない、と言っているかのようです。
或いは私とあなたに縁などない、と悟りながらもなお切れない気持ちを歌う曲なのかもしれません。

2007年10月28日 (日)

「誰のせいでもない雨が」

「悲しみを癒せ」って悲しい気分にさせているのはあんただろうが!と、つっこまずにはいられない位、一体何がそんなに悲しいのか。夕食を摂ったばかりで悲しい気分でも何でもない筆者がどんな感想を書いたものやら、書いたとしても焦点のぼけたものしかできなそうです。

「誰のせいでもない」というフレーズは諦めとも絶望ともとれますが、同時に怒りの響きを持っています。これ程の悲しみを誰一人気にしてない、そんな馬鹿なことがあるだろうか。そういう風に聞いてみると「早く 月日 悲しみを癒せ」が逆説的に「月日よ、私の悲しみは決して癒されない」と言っているように聞こえます。
それでいて、きっと忘れてしまうのだろう、という嘆きもこめられているように感じます。何か大きなものに流されて、ひどい悲しみを味あわされ、さらにその悲しみさえも流されてしまう、そういう無力感が曲を通じて漂っています。

「悲しみを癒せ」とはそんな時の流れとでもいうべき抵抗しようのない力へのせめてもの抗議であり、悲鳴でもあるように思います。言ってしまえばただ悲しさに泣き叫ぶ歌であり、それが一番真っ当な解釈のようにも思います。

2007年10月21日 (日)

「ばいばいどぐおぶざべい」

空よりも明るいどころか、果てしなく暗い海の彼方を見つめているかのようなこの歌は、別れを歌っているはずなのにぐだぐだとしていて、ちっとも割り切れてないように思えます。それなのに、かっこよさと何故か潔さのようなものを感じてしまいました。

すっきりとした別れというものは世の中にあまりあるものではなく、大抵の場合なにかしらのわだかりや納得のいかなさを残したまま漠然と別れるものです。その点、この歌は「これで良かった」、「こうすることが正しかった」などと言い訳は一切無く、納得がいかないことも、未練が残ることも正直に吐露しています。

それなのに別れなくてはならない、無念と残念の篭った言葉が「ばいばいどくおぶざべい」であって、決して綺麗でも美しくもないが正直な心を曝け出す瞬間に、一種のかっこよさと潔さがあるような気がします。

2007年10月14日 (日)

「髪を洗う女」

聖書では神を恋人のように語り、神への随身とその喜びを表現することが時々あります。この曲においても想い人への離れざる想いが赤裸々に歌われ、導入部の賛美歌の引用のせいで、ちょっと宗教がかった(まんまの解釈ですが)程の惚れっぷりを窺うことができます。

賛美歌が「また会う日まで また会う日まで」と続くことを思えば、離れたくても離れられないという苦しみだけではなく、もう一度出会うことへ期待を歌っていると解釈できます。要するに「未だに貴方が好き」と言っているだけの曲であるといえばそう言えるようで、ビジュアルの不気味さ、恨めしさ(女が夜中に髪を延々と洗い続けているという)とは裏腹に心の奥に喜びを秘めた曲ではないか、と思います。

以上、我ながら完全に導入部に引きずられた上にひねりのない解釈だと思います。しかしながら、中島みゆきが時折見せる底なしの愛は意外なほどにキリスト教と体質が合っているように思え、的外れでもないような気がしています。

2007年10月 8日 (月)

「夏土産」

爽やかなメロディーが印象的なこの曲は切ないといえば切ないのですが、それ以上に「あなた」の与り知らぬ場所で一人で嘆き、傷つき、納得している様子にむしろ恐ろしさを感じます。微笑を含んだような歌声も怖さをいやましているように思います。

「夏土産」とは望まない写真を見せつけられたことへの皮肉であり、同時に待つことしか出来ない自分への悲しさも込められていると思います。それらの思いが延々と述べられた挙句、「まだあなたが好きだから」という一節で吹っ切れたように見えて、再び渦巻き、リフレインされます。

その一連の一人芝居は男の驕った立場から言えば単なる逆恨みであり執念であり、切なさよりも怖さが先立ちます。爽やかなメロディーとは裏腹にどこまでも続くような恨みを述べた、夏の怪談のような怖さを秘めた曲だと思いました。

2007年9月30日 (日)

「この世に二人だけ」

どうもアルバムの一曲目はフォローの仕様も無いほど落ち込んでいることが多く、今回も「そこまで言わなくていいじゃないか」と思いました。と、いうより最早自虐に救いを求めているとしか思いようがないほどです。

しかし、曲調は淡々としていて極力冷静さを保っているようでもあります。むしろ愛は既に心の底に沈みきってしまい、その上辺の部分で空想を遊ばせているかのようです。ぐろぐろとした感情を歌という形に昇華したとも言えますが、そのありえない想いに底の知れない不気味さ、恐ろしさのようものを感じました。

こんな状態からアルバムを通じて段々と夢と希望を取り戻していく……と、いう展開では多分ないことは薄々わかっていますが、それでも一曲目にどん底を持ってくることは、敢えてここをスタートにしようという決意であるように筆者は思います

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