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2013年7月28日 (日)

「走(そう)」

「Yes, My Road, Yes, My Road,」の「Yes」という響きが妙に新鮮に聞こえるというか、ここにきてついに自分の生き方を肯定したとでもいうか、とにかく後ろ髪を引かれまくりだった思いと決別して己の道を進むとはっきり言い切ったところに清々しさと決意の重さを感じとれる歌だと思います。

とは言っても、曲の大半は「ひときれの優しさも ひときれの励ましも 見返りを数えている」等、懐疑的というか性悪説的な見方に立っていて、利害だけがルールの、まるで荒野に生きているような世界観が示されていると思います。
そこから「報われたなら その時泣こう それまでは笑ってゆこう」という心境に至るのは何故か、多分この歌の詩からだけではっきり分かるようなものでもなく、これまでに遭ってきた辛いことや、これから出会うだろう悲しいことや、様々な未練、望郷の念、そういう一切合財を飲み込んだ上の覚悟の言葉であるのだと思います。

「愛だけで走ってゆく」は感情に走った言葉と見せかけて、その実、重たい荷物を背負った上で荒野を行く所業を「愛」と言い切る、非常に強い決意を示しているように思います。

2013年7月21日 (日)

「帰郷群」

「帰郷群」というタイトルですが、どちらかというと帰郷できない者が孤独や疎外感に苛まされる様子にスポットが当てられているようで、心のどこかで常に故郷を求めつつ、それでも帰らない、或いは帰れない、そんな苦しみが描かれていると思います。

「ひと粒の心」が連呼された後、それらが「ころがりだす」、「集まりだす」、「つながりだす」と一つの目標に向かって集約されていきますが、「私」一人だけは「ひと粒の心」のままでいるかのようです。「帰るべき郷に背を向けた者」としての後ろめたさがあるのか、「誰かが私を憎んでいる」と思い詰める、というより最早脅迫観念というべきくらいに悩んでいるようで、故郷というものはそれほど重く切実で、一種の愛情であり、本能であるということなのかもしれません。「眠りの中では戸口を出る」と、せめて夢の中では帰郷する、本当は皆と一緒に帰りたい、という強烈な故郷への情愛が歌われていると思います。

「身の内の羅針盤が道を指す」とは故郷への道を指すのか、それとも逆で帰らない、という一種の意思表示なのか、どちらにも取れるようになっていると思いますが、筆者は後者のような気がします。これ程故郷を望んでいても自分の道を行く、それ故の苦しみが描かれていると思います。

2013年7月15日 (月)

「旅人よ我に帰れ」

孤独に彷徨う旅人を呼び止め、回帰と休息を呼びかける歌、と見せかけて最後には突き放すような、何かを捨て去るかのような強い口調で別れを告げて、一体どっちが本心なのか、多分、その表裏の心に揺れつつ湧き上がる悲しみ、やり切れなさ、激情を歌っているのだと思います。

茉莉花(まつりか)とはいわゆるジャスミンのことで、インドネシア、フィリピンの国花である、という知識がなくても異邦人に対する愛情、或いは同情、或いは親愛の情が伝わってくると思います。そして、「私の妹」と呼びつつも「私とは違う人生を生きなさい」敢えて言うことで、あなたの人生はあなただけのものであるという自主性と尊厳を相手と自分にも言い聞かせているように思います。
或いは「我に帰れ 旅人よ帰れ」というように回帰する人と、「ただまっすぐに光のほうへ行きなさい」と進み続ける人と、その対比と決別をどちらが正しいということもなく、ただ己の道をそれぞれが歩むという構図をドラマチックに描いた曲であるのかもしれません。

ジャスミンというと「1人で生まれて来たのだから」を思い出しますが、この曲とニュアンスは違えど共通した雰囲気、背景を感じさせます。ジャスミンが何者なのか、フィクションなのか実在の人なのか、このブログでは追求しないし、できませんが、中島みゆきの異邦人、特にアジアの人々への思いが(ごく一部かもしれませんが)伝わってくる曲だと思います。

2013年7月 7日 (日)

「ギヴ・アンド・テイク」

騙され過ぎて与えられることに疑り深くなった女と、「それは違うよ」と諭すように無償の愛を語る男と、何だか二人の主張は微妙にすれ違っているような気がしないでもありません。

確かに一方的に与えられ続けるのは苦痛なことで、少なくとも対等の関係ではなくなってしまうし、極端な場合、何もできない自分の存在価値に疑問を持って卑屈になってしまうのではないかと思います。
それに対して「君が受けとって呉れる ほら僕は貰えている」というのは君が喜んでくれると僕も嬉しい、という愛の基本のような共感を表していて、だから一方的なものじゃなくてGive & Takeなんだ、と、それはそれで筋は通った主張であるように思います。
ただ、それも所詮は与える側の理屈に過ぎないような気もして、結局のところどちらかの思い込みでない「共感」ができているか、そもそもそれが無いからこの歌のような状況になっているのではないか、と思ったりします。

そんなわけで、なかなかその気にならない女と、それを必死で伝えようとする男と、単純に言えばそんな男女の愛の構図を歌っているように思いました。

2013年6月30日 (日)

「ばりほれとんぜ」

これも細かい解釈は無用のようで、「ばりほれとんぜ」というワイルドというか粗野というか、有無を言わさない迫力で押し切る曲だと思います。

筆者は「ばり」という言葉は何となく福岡の方言かと思っていたのですが、ちらっと調べてみると九州の他の地方や広島、神戸あたりでも使うそうで、「Br」という破裂音に日本語らしからぬ派手さというか威勢の良さを感じます。続く「Hr」でも舌が激しく振動しているような発音で、「BrHrrrTon-Zei」と何かの呪文でも唱えているのかと思えるくらいの異様なインパクトを持ってこの言葉は発せられていると思います。
つまるところ中島みゆきは「ばりほれとんぜ」と言ってみたかった、発音してみたかっただけではないか、という単純な感想を久々に持った次第です。

コントロールの効かない気持ち、迷いや躊躇いを「ばりほれとんぜ」という問答無用の確信で蹴散らす痛快な曲だと思いました。

2013年6月23日 (日)

「彼と私と、もう1人」

正直言うと、どういう状況なのかは今ひとつ分からないのですが、ホラー&サスペンスな感じで、「彼と私と、確かにもう1人」と結ばれた後、意味ありげな後奏が鳴り響いて何だか怪談でも聞いた後のような不気味な後味があります。

「疑いようもなく運命を結びあい」、「私たちは呼ぶ 心と心で」と、不安を吹き払うように二人の結びつきを強調した後で、「そののち気がつく 彼と私と、どこかにもう1人」と、一度持ち上げて落とすようにしてぞくっとくるような恐怖を演出していると思います。
「もう1人」というのが本当に怪談に出てくるような霊的な存在なのか、それともストーカー的な存在で、二人はどこからか監視されている、という恐怖なのか、それとも過去の亡霊的なもので、いつまでも彼または私の心の中から消えない、忘れられない存在で今の二人の生活を軋ませるような存在なのか、筆者としては怪談とかストーカーなら純粋に怖いだけですが、過去の亡霊となると非常に嫌と言うか何かへこむ感じですが、中島みゆきの歌ならばそういうニュアンスが強いのではないかなあ、と勝手に想像して微妙に気分になりました。

その辺りはどうとでも解釈できるようになっていると思いますが、結ばれても、誓ってもまだ拭えない不安感、いつまでも心に引っかかり続ける存在、そんな平穏であるはずの生活の中の違和感、漠然とした恐怖を歌った曲なのだと思います。

2013年6月17日 (月)

「鶺鴒(セキレイ)」

どことなく民族歌謡風、郷愁を感じさせる曲調と詞が懐かしさと共に悠久に続く田舎の空と草を思い起こさせて、人が抱える漠然とした不安感を慰めるような緩やかで穏やかな曲だと思います。

「心許無く鶺鴒の」と、鶺鴒がある種の不安感の象徴、或いは不安な心が向かう先、安らぎの象徴のように描かれていると思います。何故それが鶺鴒なのか、と考えるのは無粋かもしれませんが、以下つらつらと考えてみました。
鶺鴒は一説に夫婦和合の象徴で、それが生命の営み、引き継がれる命という意味合いで「人は永遠に在らねど 咲き遺れよ心」とつながるのか、またはただ単に鶺鴒が日本や世界各地の田舎で見られるお馴染みの鳥で、郷土の象徴とするにに相応しい、ということか、もしくは鶺鴒のある一種は日本にしか見られないということがあり、「永遠に在れ国よ」という言葉と合わせて、日本の国家繁栄を期した曲である、という見方もできなくもないかもしれません。
と、ぶちあげてみたものの、どうも子孫繁栄、国家繁栄というような華々しい雰囲気の曲ではなく、冒頭にも書いたように「人は永遠に在らねど」という漠然とした不安を、「咲き継がれよ心」というように心はつながって行く、という言わば心の在り方に平安を求める歌であるように思います。鶺鴒は郷土の象徴であって、その姿を透かして継がれていく人の心を見るようなものなのだと思います。

2013年6月 9日 (日)

「あばうとに行きます」

中島みゆきの歌と言えば、全ての曲がそうというわけではありませんが、どちらかというと肩に力が入り過ぎていたり、考え過ぎて頭の中の袋小路に行き詰っていたり、「あばうとに行く」とはむしろ対照的なイメージがありますが、この歌ではそんなイメージにもお疲れなのか、もう悩み疲れた、何も考えない目的のない旅に出たい、とそんな雰囲気が出ていると思います。

特別な解釈が要るような難しい曲ではないと思いますが、「切符をください私にも それだけ言いたかった」からは、「あばうとに行きます」がごく小さな、衝動的な願望であることが窺えます。先案じや批判を忘れて私も旅に出たいと誰かに言いたい、本当に旅に出るかは別にしても私にだってそんな時があることを解ってほしい、という意味がこめられているような気がします。
「あばうとに行きます」は本当に今後はアバウトに行く、という宣言ではなくて、そういう時もあるよ、というふとした衝動を言っているのはないかと思います。

「ひとまず普通に呼吸をしてみます」なんてお疲れが過ぎている感もありますが、この歌はきっとあばうとにはなれない人を歌った、ささやかで切実な願望の歌であるように思います。

2013年6月 2日 (日)

「BA-NA-NA」

アジア人なのに西洋人ぶりたがる日本人のことを反感と軽蔑を以って「バナナ」と呼ぶことがある、と聞いたことありますが、この歌はもろにそのことを歌っているわけで、「バナナ」である「私」を自嘲するような、冷笑するような、怒りとも悲しみともつかない激しい感情が渦巻いていると思います。

「アジアの国に生まれ来て アジアの水を飲みながら」と、アジアであることが繰り返し強調されています。しかし、我々は(筆者だけかもしれませんが)普段アジア人であるという自覚はあまりなく、もしアジア人であることを強烈に意識することがあるとするなら、それは差別を受けた時、或いは見聞きしたときであるように思います。
バナナという言葉に日本人が同じアジア人なのにアジア人を見下している、というニュアンスがあることを考えれば、この歌は差別する側である日本を批判しているようにも聞こえます。また、「強い国の民を 真似ては及ばず」、「今日も思い知らされる」という詞からは一種の劣等感、或いは差別を受ける側の立場であることも読み取れます。
この歌はそういう奇妙な板ばさみの感情、差別されたくないと思いながら差別をしているという滑稽な立場、強い国への憧れと混ざろうとして混ざれないという現実、そういったものが織り交ざって「BA-NA-NA-NA-NA-NA」という馬鹿馬鹿しく、それでいて激しい叫びになっているように思います。

だから何、と言われると困りますが、多分この歌はアジアの一員であることを自覚せよ、という啓蒙的な歌ではなくて、もっと直感的に感情的に差別に対して憤っている、もしかしたら中島みゆきの体験によるものではないか、と想像します。

2013年5月26日 (日)

「バクです」

「バクです」という唐突な宣言が何だか浮世離れしているようで、曲の方ものんびりふわふわとして取りとめも無く、まるで夢の中にいるようですが、それでいて一抹の寂しさを感じさせて何だか気になる、そんな不思議な感触の曲です。

「今の今からバクになる」という言葉がそれまでに何があったんだろう、と想像させますが、「バクは1人で喰い続けてる」から、やっぱり振られたのかなあ、と月並みな想像が頭をよぎります。
「喰っちまいます」なんて攻撃的な言葉とは裏腹に割と受け身というか、「あんた」を陰から見守れれば、夢に見られれば良い、という非常に控えめな態度で、むしろ自分は夢を見続けていたい、ずっと夢の中で浮かんでいたいというささやかな願望が歌われていると思います。
そして、「あんた」の悪い夢を喰いたい、「あんた」の捨てたい夢を喰いたいという、優しいようでささやかなようで少し歪んでいるようにも思える奇妙な愛情が、わずかな不気味さと所詮それも夢という寂しさを醸しだしているような気がします。

バクです、というよりもバクになりたいという願望、たとえ手が届かなくてもずっと想い続けたいという気持ちを歌った曲なのだと思います。

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