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2013年5月12日 (日)

「愛だけを残せ」

これもまた綺麗なメロディーの歌で、「愛だけを残せ 壊れない愛を 激流のような時の中で」と中島みゆきに歌われると、その言わんとすることが正確に分かるわけではないですが、とにかく儚い人生の中で愛だけが健気に輝いているような、それだけが生きるよすがであるような気分になって、胸を打たれるものがあります。

「愛だけを残せ」という言葉ですが、前節の「振り返ってしまうから」に対して逆説的な結論だと思います。愛こそ不定形で残すことは難しく、「愛だけを残せ」はむしろ人生に何も残りはしない、だから残すことを考えるより今精一杯愛しなさい、と言う意味である、と筆者は思いました。「汝の名を名乗れ」と言いつつ「名さえも残さず」と打ち消す詞には、時には振り返りたい、形ある何かを残したいと思う一種の心の弱さも認めつつも、やはりそれらは虚しい、やがて消え去るものであるという思想が見えているように思います。
仏教的な無常観と、瞬間的に光輝く「愛」という特別な存在が共存する中島みゆきの世界観が垣間見える歌であると思いました。

そんな歌詞の解釈は置いたとしても、十分な説得力がある歌、何かがわかった気になる歌で、メロディーの力、歌唱の力の偉大さを感じる曲でもあると思います。

2013年5月 5日 (日)

「雪傘」

中島みゆきと言えば未練の歌、というイメージというか、事実強烈な未練の歌が数多くあると思いますが、「雪傘」は未練も多少は残しつつも、綺麗な別れの歌で、身を引くという一種の美学を歌っているように筆者は感じました。

「雪傘」というのも綺麗な造語で、雪が降る中、車を拾うまでの間に傘に薄く雪が積もっていく、その短い時間の間に(多分)傘を持っている「あなた」の手に指を添えて、色々な思い出が通り過ぎていく、という最後の時間を表現しているように思います。
そうやって思い出に決着をつけているようでもあり、「思い出を返しましょう」、「思い出消しながら遠ざかりましょう」と、すぐ忘れられるかはわかりませんが、少なくとも決心はついているように思います。「思い出全部 アリガト」も感謝や未練というよりは、決別の言葉で、泣き出しそうな気分の中での精一杯の言葉なのだと思います。

身を引く、というスタンスの歌は今までもあったかと思いますが、この曲はより積極的(と言うと何か変ですが)で、極端に言うと振られる歌ではなくて振る歌であるようにさえ思えます。中島みゆきの歌は別れを告げられるばかりでなく、自分から告げることもあるのだな、と思いました。

2013年4月28日 (日)

「負けんもんね」

何だかキツくて辛くてボロボロで希望までも踏みつけられた人生、それを延々歌っておきながら、「が、負けんもんね」とヤケのような、どういう根拠もないような、それでいてひたすら本気を感じる一言に元気づけられる不思議な曲だと思います。

「負けん」という響きがこの歌では大事であるような気がします。勝つではなく負けん、であり、「試すなら試せ」、「負けとる場合じゃない」という詞からも、何か大きな力に潰されそうになりつつも、そんなことよりもっと大事なことがある、何かを無我夢中でやり遂げようとしている感があります。それはやはり希望と呼ぶべきもので、ただ耐え忍ぶだけでなく、絶対に潰されないぞ、と気力を奮い起こすような何かがあるわけで、それが聞いている者までも勇気づけるのだと思います。

と、言っても歌詞だけ見ているとやはり強がりとしか思えない気もして、しかし歌を聞くと希望があるような気がする、理屈というよりは中島みゆきの歌から伝わってくる気迫がそう思わせる、歌の力、歌の持つ説得力を感じさせる曲だと思いました。

2013年4月21日 (日)

「鷹の歌」

或いは中島みゆきの体験談か、と思う程具体的な描写で始まる曲で、さほど人生経験があるわけではない筆者にはピンと来たわけではないですが、それでも誇り高い鷹の生き様とそれを見た感動が伝わってくる歌だと思います。

「私」は「見てはいけないようで 私の視線はたじろいだ」というように「鷹」への同情や憐れみ、或いは幻滅、或いは時の流れの残酷さへの恐れ、そんな感情を抱いているように思います。それに対してただ「見なさい」と応えるのは、それらに対する否定でも怒りでもなく、また、老いて衰えることを無理に美しいとか素晴らしいとか言っているわけでもなく、「怖れるなかれ 生きることを」と言うように、ただ恐れずに真っすぐ受け止めているようで、「私」は傷ついても衰えてもその精神がなお屹立していることに感動を覚えているのだと思います。

「鷹と呼ばれていた人が 這うように命を運ぶ」という流れが美しく歌われていますが、やはり憐れみではなくて畏敬がこもっているのだと思います。生きることの強さを考えさせる深みのある曲だと思います。

2013年4月14日 (日)

「ごまめの歯ぎしり」

どことなく冷めていて、自分も含めた何もかもに呆れているような皮肉な歌詞、メロディアスだけどどこか淡白で盛り上がらず繰り返される演奏、そんな雰囲気が初期の中島みゆきを髣髴とさせる、と思いましたが、それよりも何か苦いものでも口に含んでいるかのような歌声が印象的で、「ごまめの歯ぎしり」というタイトル通り、割り切れないものを抱えたまま歌い続ける、変わらない中島みゆきの姿が見えるような曲だと思います。

不平不満をどうにもできずに、1人でお茶を飲んだり、星を見たりするのは「ごまめの歯ぎしり」という言葉さえ当たらないような気がするのですが、どちらかというと同じく歌詞に出てくる「高い樹にあるブドウはどうせ酸っぱい」という言葉がこの歌の心情に近いような気がします。なすすべのなさ、どうせダメだからという諦め、それでいて捨てられない羨望、失敗したらもう立ち直れないという恐れ、そういう、あの日のように単純明快になれない煮え切らない気持ち、言ってしまえばウジウジした気持ちを皮肉やら語彙やらでコーティングして、歌に仕立て上げているように思います。

特に前向きでもなく、解答が歌の中で見つかるような曲ではないと思いますが、それもまた良いような気がします。いつまでも続く自問自答を描いた悩み深い夜の歌だと思います。

2013年4月 7日 (日)

「サメの歌」

変な歌、という小学生並みの感想が湧いてきましたが、妙な言葉の切り方、字足らず感、素っ頓狂な雰囲気の演奏、そして「サメの歌」と言いつつ、サメのことを歌っているようには思えない歌詞など、ピンと来る人はやや少ないのではないか、と思います。

わからないなりに解釈すると、「なまものは後ろへ進めない」という詞で「なまもの」という言葉をあえて使うことで「魚」であることを、リアルで生々しく、痛みやすいその姿を多少の自嘲とユーモアをこめて表現していると思います。大事なものを忘れたり、落としたりしながら、戻りたいと思ったところで戻れない、前に進むしかない、そんながむしゃらな人生、決して思い通りではない傷だらけの人生に哀愁と愛情をこめて「サメよ サメよ」と呼びかけているのだと思います。

「真夜中の動物園」というタイトル通り、動物に関わる歌が多いかと思います(この歌は動物園と言うか水族館という感じですが)。そこには動物の生態、というより人生の縮図は描かれているようであり、中島みゆきの歌を通じて様々な人間模様が見えてくるようだと思いました。

2013年3月31日 (日)

「夢だもの」

明るくて綺麗なメロディーに途方もなく暗い歌詞、という歌は筆者は好きですが、それにしてもこれほど容赦なく「夢だもの」と言い切ってしまうのは衝撃的というか、久々に抜き身の刀身のように露骨で自虐的で触れ難い中島みゆきを見たような気がします。

全体的に泣いているような、堪えているような歌声なのが印象的で、「どうせ夢だもの 全部夢だもの」は決して開き直って明るい気持ちになっているわけではない、「嘆かないのよ 夢だもの」も、全然割り切れていない、むしろ自分に言い聞かせている、そんな感じがします。どうせ夢なんだから思い切り楽しみましょう、という気分もないわけではない感じですが、楽しめば楽しむほど後が辛くなるようで、「どうせ夢だもの」は夢と言うよりはむしろ現実を噛み締めている言葉であるような気がします。

儚くて短い夢を見ることの美しさ、楽しさは肯定しつつ、ふと夢から醒めたときにやりきれない気分を歌っていると思います。夢の世界に行けたらと思いつつも、決して夢では満たされない気持ち、あがくような恋心の歌であると思います。

2013年3月24日 (日)

「小さき負傷者たちの為に」

やや抽象的ですが、ストレートな歌詞であり、曲であり、特別解釈が難しいところはないと思います。文字通り小さき負傷者たちの為の歌である、と思います。

「言葉持たない命よりも 言葉しかない命どもが」と繰り返されますが、「言葉持たない命」は歌の最初にもあるように声もなく力もない小さきものたちで、ひどい目にあっても、悲しいことがあっても、訴える先もなく、ただ黙って耐えることしかできない人たちであり、「言葉しかない命」というのはその反対で、口先だけは偉そうだが、実際には血を流さない権力者を指しているように思います。そして続く「そんなに偉いか 確かに偉いか 本当に偉いか 遥かに偉いか」は、4回も繰り返される「偉いか」に異様な執念というか、本当に悔しい、無念である、という気持ちが伝わってきて、中島みゆきの歌でしばしば出てくる弱者への深刻な同情、或いは愛のない、強いものたちへ怒りが滲み出ていると思います。

「負傷者」という何となく堅苦しいというかニュースか何かで使われても歌ではあまり使われなそうな言葉が、違和感と共に一種のリアリティを生み出して、この歌を「歌の中の話だから」と軽く言いづらいものにしているような気がします。「卑怯と闘う同志でありたい」という言葉がいつになく力強く感じる、リアルな歌であると思いました。

2013年3月17日 (日)

「ハリネズミだって恋をする」

何故だかラテンなリズムですが、情熱的とは必ずしも言えない、むしろ引っ込み思案で多少の自嘲が入った歌詞にやっぱり中島みゆきは南国ではなくて北国の人なんだよな、と安易な感想を持ちました。

歌の大半は傷つきやすい自分、とげとげしい自分に散々落ち込んでいる感じですが、唐突に「でも ハリネズミだってね 切実な恋をする」と大転換をして、前向きさというか素直さと言うか、とにかく希望のようなものが湧いてきていると思います。
しかし、よくよく考えてみるとハリネズミな自分が変わったわけではなく、状況が何か良くなったわけでもなく、「え、それでいいの?」と思わなくもありません。おそらく客観的に見てどうすべきだ、という話ではなくて、あくまで恋という主観で私はこうしたい、こうありたいという気持ちを歌っていて、根拠不要の衝動ではないかと思います。

或いはこれが中島みゆき風ラテン、とまた安易なことを書いてしまいますが、湧き上がる情熱と自分への不安と、それらがせめぎ合い、混ざり合って、独特の雰囲気の曲であると思いました。

2013年3月10日 (日)

「まるで高速電車のようにあたしたちは擦れ違う」

ノリの良い曲で、ぼーっとしながら何度も聞けるのですが、何度聞いても肝心な部分を聞き逃したような欠落感、わけのわからないままにただ1日だけが過ぎ去っていく焦燥感、困惑、情緒不安定さがあると思います。「まるで高速電車のようにあたしたちは擦れ違う」というタイトルは、歌詞中では出てきませんが、この曲の心情に最も相応しい言葉のように思います。

何かに違和感、嘘臭さを感じつつもその何かがわからないまま、流されるままに生きていく、そんな充実しない、生きている実感が希薄とでもいうのか、その現状に叫びだしたいような衝動に駆られていると思います。
「笑うことも」「泣くことも」……と全て中島みゆきが歌っていますが、一語一語を別々に録音しているような構成になっていて、「あたしたちは」を何度も繰り返した後、「自由っていう名前の中 何か嘘を嗅ぎ取ってる」と合唱のようになりますが、最後のコーラスはやはり共感とか連帯感というよりは、それぞれ同じことを思いながらもバラバラである、それぞれが疑問と不安を抱えて、それぞれが叫んでいるような孤独さがあるように思いました。

この不安定さ、疑わしさ、孤独さ、刹那さ、テンポの良さ、何となく初期の中島みゆきを思い出しました。特に回帰というわけではなくて、これが中島みゆきの基本とでもいうか、おそらく消えることの無い悲しみと衝動ではないかと思います。

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