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2011年10月 2日 (日)

「海よ」

1stアルバムからの再レコーディングですが、そうか、この歌はおとぎ話だったのか、とは到底思えないような切実さは健在で、或いは、おとぎ話だったと思うことで全てが物語に帰っていくような、より一層の切なさを感じることができます。

昔の記事を読み返してみたら当時の筆者なりの変な解釈をしていましたが、「故郷=女、船乗り=男、海=社会」というイメージは掻き消えて、そういうことよりも、万人が還る場所である故郷を優しく、そして切実に歌っている曲のように思えました。
「時は いま いかりをあげて」、「故郷の島を 離れ 今日も さまよう」と時間の流れ、人生の流れを簡潔に述べつつ、常に根底にある願望、そして最期の願望とも言える「遠い 故郷へ 舟を運べよ」という言葉に人生を帰結させていると思います。

オリジナルよりもゆっくりと、やや低い声で抑揚を少なめに歌われ、伴奏もかなり控えめのため、中島みゆきの歌の力、懐の深さのようなものを存分に感じることができます。物語の終着としての海の魅力をいかんなく表現しているように思います。

2011年9月25日 (日)

「紫の桜」

桜と言えば華やかで潔い、あるいは儚い、という刹那的なイメージがありますが、この歌は時の流れ、それも100年、200年という長い時間の繰り返しを感じさせ、異様な桜のイメージが脳裏に浮かびます。

「彼岸」とは悟りの境地を指すらしいですが、行き場を無くした想い達が桜の樹の下で渦巻いているような、その話を聞いてやることで迷いが晴れて、彼岸へと帰って行くような、そんなおとぎ話というか、スピリチュアルな映像が思い浮かびます。最後の集団によるコーラスは桜の樹の下に集った魂の群れが歌っているようで、何だか怖いほどの迫力があります。

紫の桜、という題名はもしかすると夜の桜の風情を表しているのか、この歌の桜は華やかなピンクの昼の桜ではなく、昏い青色が混ざった薄闇の雰囲気があります。静かな夜に桜を眺めつつ、古い記憶に思いを馳せる、そんな曲なのかもしれません。

2011年9月18日 (日)

「裸爪のライオン」

何だか明るすぎてついていかない、という位、清々しい情熱というか衝動が描かれていると思います。何の皮肉も翳もないように思われ、中島みゆきがこんな歌を歌っていることがおとぎ話なのかと、いらん深読みをしてしまう程です。

教科書だとか校庭とかいう単語が出てくるので、やはり若い初期衝動を歌っているのだと思います。抑えても抑えても募る気持ち、むしろ抑えられれば抑えられる程、何故か湧き上がる感情、「まだあきらめを覚えていない」の言葉通り、理屈ではなくフィーリングであきらめを感じていない、ひたすら前に進む若さを歌っていると思います。

裸爪と書いて「はだし」と読ませますが、飛べないカモメと違って、そりゃ普通のライオンじゃないか、と思うのですが、もしかするとお前はお仕着せの靴を履かされたペットじゃない、鋭い爪を持ったライオンなんだ、と煽っているのかもしれません。情熱を賛美し、鼓舞する、そんな応援歌のような曲なのだと思います。

2011年9月11日 (日)

「愛される花 愛されぬ花」

「愛される」と「愛されぬ」、「r」と「n」の子音が一つ違うだけでえらい違いですが、意識されてかどうか、実際の歌でもほとんど聴きとれないくらいの小さな声でその言葉が発せられ、その微妙で絶対的な差をそのままに嘆いていてるように聞こえます。そして、その方が下手に希望を捻くり出されるよりも心安らぐような気がします。

前曲と違って絶対的な美がどうこう、という話ではなくて、赤い花が好きか、白い花が好きか、という好みの差としか言えないような違いしかないのに、かたや「あの人」に愛されて、かたや愛されないという、これはこれで非常に理不尽というか、辛いものがあると思います。
達観してしまえば、愛される人生もあるし、そうでない人生もある、というそれだけのことかもしれませんし、「あの人が ただ赤い花を 生まれつき好きならば それまでだけど」という、それを納得するような言葉も出てきますが、「それまでだけど」の「けど」にこめられた思いを汲もうとすると、涙を禁じ得ないような切なさがあると思います。

割り切れなさ、やり切れなさを抱えたまま揺れて、やがて枯れて行く、そういういわば普通の、平凡な花の哀しみをそのままに描いた曲なのだと思いました。

2011年9月 4日 (日)

「みにくいあひるの子」

妙におどけた陽気なリズムに乗って、やはりおどけたような妙に鼻にかかった歌い出し。聞いちゃいれない卑下と嘆き、そして切実さが余韻とも後味の悪さともつかない微妙な感触を残します。

大抵のお伽ばなしにおいてヒロインはそういう不文律があるかのように美しく、美以外の取り柄は描かれていないこともしばしばですが、じゃあ美しければ何でもいいのか、美しくなければヒロインの資格はないのか、というとすばりそうであるようで、「みにくいあひるの子」の話にしても、白鳥という絶対美にみながひれ伏すわけで、美という水戸黄門の印籠、問答無用の逆らうことができない権威の話であるように思います。
この歌の主人公もやはり美という絶対権威に逆らう術を持たず、ひたすらに我が身を嘆くばかりですが、その中で「愛してます」だけが唯一のアンチテーゼ、或いはよすがであるかのように思います。それもか細く、消えいりそうになっている、苦境に負けてしまいそうな、非常に辛い様子を描いた曲であると思います。

タイトルの「みにくいあひるの子」は、貴方は本当は白鳥なのよ、という意味ではなく、美という権威に対する皮肉であって、みにくいあひるの子でも人を愛する、という主張であるように思います。今はおどけて言うしかないし、人に笑われる、でも愛しているんだ、と歌っているように思います。

2011年8月28日 (日)

「あの人に似ている」

まるでデュエット曲だな、と思ったのが第一印象で、まるでも何も100%デュエットなわけですが、「いつか夢の中へ」と同様、サビが同一といえどもまるで別々のことを歌っているような、むしろ男女は惹かれ合うことはあっても解り合うことはできない、と主張しているようにすら感じます。

デュエット曲というと男女の軽妙な掛け合いがあるようなイメージで、予定調和的とでもいうか、男女で協力して歌うもののような気がしていましたが、この曲は男女がそれぞれ異なる想いを炸裂させて、ガチで戦っているような、馴れ合いを許さないような雰囲気があります。
実際、男のパートをさだまさし、女のパートを中島みゆき(サビは中島みゆき)で、別々に作った、ということですが、もしこの歌をカラオケなどで歌うなら、男はさだまさしになりきって、女は中島みゆきになりきって歌わねば様にならず、その結果、多分親睦は深まらないだろうな、と、そんな気がするまさに異色なデュエット曲だと思います。

二つの才能が鎬を削っている、そんな印象もあります。そんな男女がたとえ一時でも言葉を一にして激しく盛り上がっている、その奇跡を歌った曲なのかもしれません。

2011年8月21日 (日)

「匂いガラス ~ 安寿子の靴」

「匂いガラス」と「安寿子の靴」という2曲がCD内で1つのトラックにまとまって、連続で流れるようになっている、という変わった形態になっています。このブログでも2つをまとめて感想を書くことにします。

「匂いガラス」は全体としては静かで幻想的な曲ですが、「甘くて酸っぱい」、「今をときめく」、「疼く」など、これから何かが始まる期待感でいっぱいであるように思います。絵本を開いて物語が始まるような、前奏的な役割を果たしていると思います。

そして「安寿子の靴」で、さあ冒険が始まるのか、と思いきや、いきなり場面が飛んでエピローグになっているような、むしろ何も始まらずに人生が終わってしまったような、そんな後悔とも未練ともつかない感情が波にゆれているような印象を受けます。
結局は水の中で回り、水の中へ還り、それに逆らう者さえも水は受け入れる。そんな無常感の中で思い出を拾い続けている姿に哀しみと安らぎを感じます。

或いは、水に落ちた靴に匂いガラスの面影を感じた、というお話なのかもしれません。おとぎばなしとは思い出のことである、そう言っているようにも聞こえます。

2011年8月13日 (土)

「雪・月・花」

「雪月花」という言葉が、白居易の詩の一句、「雪月花時最憶君」から来ている、ということをさっきウィキペディアを読んで知ったのですが(筆者の知識はその程度です)、この曲は「最憶君」の部分ばかりが強調されているというか、「雪月花」という自然のバランス、季節の美しさの部分は影をひそめて、「雪・月・花」という何かまるで別の凄惨な情景が見えてくるようで、なるほど「雪月花」じゃなくて「雪・月・花」なんだ、と思わせてくれます。

筆者は音楽的素養もないので上手く書けませんが、「雪・月・花」の部分は言葉の意味というより、音韻のバランスとその楽しさの方が印象的だと思います。「ェエエ」、「ェエエ」と遠くから響くような音が続いた後、、「アァ」という強くはっきりとした音が締める、ということをテンポ良く繰り返され、もはや「雪・月・花」は雪でも月でも花でもなく、ただ音の流れが轟々といつまでも鳴り響くようで、まさにひたすらつのるばかりの恋心を表しているような気がします。

ところで、この曲が工藤静香への提供曲だったことを記憶しているのですが、その工藤静香の「雪・月・花」と比べると(うろ覚えで比較するのもアレですが)、工藤静香の方が薄幸っぽいというか、中島みゆきの方が力強く伸び伸びと歌っている、という印象があります。単に声質の違いのような気もしますが、中島みゆきはセルフカバーを楽しんでいるんだなあ、という印象を受けました。

2011年8月 7日 (日)

「おとぎばなし」

タイトル曲と言えるかもしれない曲ですが、前2曲とはガラリと変わって現実的、というか、「おとぎばなし」が溜息のような、気休めとしてのひどく小さな存在で、おとぎばなしはおとぎばなしに過ぎない、とそう言っているようにも聞こえます。

歌詞から想像するに「私」はもういい年齢で、いちばん好きな人じゃないと嫌だとか、そんなことを言ってる場合か、と周りに言われる、或いは自分でもそう思っている状況で、いわゆるピーターパン症候群とは全然違うでしょうが、現実を見たくない、子供のまま恋に没頭したい、という願望あり、同時にそんなこと叶いっこない、というあきらめがあり、おとぎばなしという言葉がそれらを象徴していると思います。
と、解釈しつつも、筆者は「私」の本命一辺倒主義とでもいうか「父母が知らない男を連れてくる どうにでもなれと うなずいて」など、他の男は本当にどうでもいいと思っている態度、オールオアナッシングの精神に戦慄を感じます。思えば現実と妥協して、そこそこのところで手を打つおとぎばなしは無い、例えばシンデレラが隣の家で働く下男あたりと結婚することはないわけで、「おとぎばなし」は妥協なき思いを表しているのかもしれません。

少し疲れたような穏やかなメロディーの曲ですが、おとぎばなしに休息を求めつつ、未だ捨てられない想いを歌った曲なのだと思いました。

2011年7月31日 (日)

「シャングリラ」

またまたお伽ばなしのようなって、アルバムタイトル通りではあるのですが、二胡の音がオリエンタルな雰囲気を醸しだして、幸せの馬車がやって来るかどうかはわかりませんが、草原で悠久の時間を過ごしているような気分になります。

中島みゆきのことだから、夢のような光景の影にシビアな現実が転がっているに違いない、としつこく思わなくもないのですが、この曲においては「私たちは貧しくて何の飾りもありはせぬ」と「絹のドレスに金の腕輪 水晶の靴を手土産に」という部分の対比があるものの、貧しい私たちを苦にもしていない風で、むしろ金やら銀やらの方が風に溶けて消えていくような、悠揚とした気分があります。
おそらく、彼女達は遠い夢の国への憧れを無邪気に歌いながらも、故郷への大きな信頼感があればこそで、実のことは野辺に咲く小菊や春の風を礼賛しているように思います。

遠い彼方のシャングリラ(理想郷)に思いを馳せつつ、両足は大地にしっかり立っている、意外と気がしっかりとしている曲だと思いました。

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