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2011年7月17日 (日)

「LOVERS ONLY」

アンチ・クリスマスソング、と呼ぶにはあまりに痛々しくあまりに情けなく、言ってしまえば敗北の歌のように思えるのですが、何だってこの歌がアルバムの最後に置かれたのか、その意図が気になる、意味深な曲だと思います。

キリストの生誕を祝う日のはずなのに、日本のクリスマスは恋人のための特別な日のようになってしまっていて、筆者も何となく浮かれた街の雰囲気や、それを煽る商業主義やらに反発を感じるのですが、この歌はどうもそういうことを問題にはしていないようです。
「本当の愛だけが この夜までに結ばれるのが真実だよと あの日あなたに聞いたのに」という一節が全てだと思います。つまり、クリスマスが恋人のための特別な日である、と他でもない「あなた」が言ったからこそ、私にとっては真実であり、それを信じていたからこそ、この日がこの上なく残酷な日になってしまった、ということなのだと思います。
歌詞から察するに、一月前に別れた「あなた」はちゃっかり別の恋人を作っているようですが、「Merry Xmas,Merry Xmas」は呪詛なのか、自虐なのか、それとも未練なのか、いずれにせよ、一般的な意味ではなく、極めて個人的な感情、「あなた」のための特別な思いがこもった言葉なのだと思います。

この歌がアルバムの最後に置かれた理由、は誰にも分からないことかもしれませんが、最後に大泣きしてすっきりする、そういうことかもしれないな、と思わせるくらい、目一杯の悲しさを発散する歌だと思いました。

2011年7月10日 (日)

「月迎え」

静かな調子で月光降り注ぐ丘を叙情的に表現していると思います。象徴的な修辞が多く、その意味することの一つ一つはわかりませんが、月の光、と言いつつも、光と言うよりは闇を象徴しているようで、闇に棲む生き物が月の下で憩う、そんな雰囲気を感じます。

自分自身も月の光に惹かれた一匹の小動物のように、同じく月を迎えに行く影に親近感を感じているように思います。或いは、小さい頃に感じた「さわってみたかった かじってみたかった」という他愛もない思いを、同じく小さい頃に(と、いうのは筆者の想像ですが)良く見かけたカナヘビに重ねて、この小さな生き物に何ともいえない可愛らしさと神秘の思いを感じているのではないかと思います。

「月の光は傷にしみない 虫の背中も痛まない」という節があるように、傷ついた者のための存在として月を描いているようにも思います。陽の光に疲れた生き物達が癒しを求めてそっと集まる、そんな心の拠り所としての「月迎え」なのかもしれません。

2011年7月 3日 (日)

「夜行」

「夜行の駅で泣いているのは みんなそんな奴ばかり」というサビでの感情の爆発が印象的な曲ですが、励ましとも違うような、同情とも違うような、筆者自身が夜行を使った経験があまりないせいか、そこにこめられた感情に今ひとつピンと来ない感があります。

「夜さまよう奴は まともな帰り先がないせいだと」という一節がありますが、あながちそれも外れていはいないような、好き好んで夜行を使ってるわけではない、安穏とした生活を送ることができない、それぞれの事情を抱えて、哀しみを背負って生きている雰囲気が出ていると思います。と同時に「日暮れどきにねぐらに帰ってゆかない獣は みんな獰猛な種類だと」という偏見、偏見だが農耕民族的な常識でもあって、反論しても詮無いような重苦しい偏見があり、個人的な事情に加えて、対世間的な重圧も背負って生きていかなければならない、そんな苦悩があるような気がします。

そう考えると「夜行の駅で泣いているのは みんなそんな奴ばかり」は悲しみの爆発であって、ただそれだけであるのかもしれません。或いは凶暴な武器の代わりに散りそうな野菊を抱えて、偏見と戦い続ける優しい獣達への讃歌でもあるように思います。

2011年6月26日 (日)

「ツンドラ・バード」

サスペンスともサイケデリックとも違う、何かに誘われるような、煽られるような奇妙な焦燥感にゾクゾク来る歌で、どちらかというと心の穏やかさを求めているように思えたこのアルバムの中で異色の作だと思います。

ツンドラの鳥、オジロワシが神秘的な存在として描かれていますが、オジロワシは近年生息数が減少している希少動物だそうで、そう思って聞くと「ツンドラの鳥は見抜いているよ 遠い彼方まで見抜いているよ」というフレーズが、失われつつある孤高の存在への畏敬と愛惜を歌っているように思えてきます。
種が絶滅に瀕するという非常事態への焦りの感覚が冒頭に述べた焦燥感につながっているのかもしれませんが、それが「自然を守ろう」とか「オジロワシは友達である」というような安易な主張にならず、あくまでオジロワシを超然とした存在として描き、「間に合うかも 生きているうち会えるかも」という一線を引いたあたりに、中島みゆきの自然に対するある種のシビアさを感じました。

「生きているうち会えるかも」の最後の部分は叫ぶような声になりますが、そこにツンドラの鳥に対する憧憬や悲しみ、或いは希望や絶望など全てを籠めているように思います。

2011年6月19日 (日)

「カーニヴァルだったね」

飲んだくれてますが、悔恨というか、哀愁というか、何とも言えないやり切れなさが漂い、宵宮なのに祭りの後、というべき喪失感が漂っています。こんな人とは飲みたくない、と度々書いてきましたが、そんな気分の時もあるだろう、と理解を示したくなる程の悔恨っぷりに酒飲みのある種の風情が出ている気がします。

悔恨と書きましたが、「カーニヴァルだったね」という一言がこの歌を単なる愚痴から救い出していると思います。愚かな、愚かなと繰り返しながらも、それらをひっくるめて抱きしめたくなるような喜び、思い出である、と言っているようで、悔いを過去のものにすることで、逆説的に悔いなし、と言っているようにさえ思えます。
「何故ここにいるのだろう」という言葉が示すように、全てに納得がいった、というわけではないでしょうが、少なくともカーニヴァル"だった"、ことを認め、吹っ切ろうとしている様子を感じました。

祭りと酒とくれば、もっと陽気でハレなイメージですが、この曲はその陰の部分とでもいうか、単に泣き上戸というか、非常に中島みゆきらしい風情が出ていると思います。

ところで、「道のほとりに身をさらばえて」というフレーズが出てきますが、「さらばう」という耳慣れない言葉が出てきたので辞書で調べてみると、「やせ衰える。風雨にさらされて骨だけになる。さらぼうに同じ」という古語が当たりました。言い得て妙、とも思えますが、筆者は「晒す」と「這う」を合わせた独自の言葉だと思うのですが、どうでしょうか(どうでもいいか)。

2011年6月12日 (日)

「六花」

雪を題材ににした曲は幾つかありますが、全てを覆い尽くして真っ白にする、というイメージが共通していると思います。この曲でもそのイメージが端的に語られる、というより、むしろそれを望むように願うように「降り積もれよ」と呼びかけています。

もっとも、望もうと望むまいと積雪地方の雪は降り積もるわけで、ことさらに「降り積もれよ」と言う心情は、穿った見方をすれば、どうしようもない大きな力、運命に対するあきらめか、或いはやけになってどうにでもなれ、と言っているようにも思えます。
ただ、2番では厳しい冬の情景の中で雪は麗しき使者のように描かれ、そこにネガティブなイメージはありません。辛く厳しい冬の下、けなげに生きる花が見えるかの如く、運命を受け入れてなお生き抜くことを信じているようで、降雪上等、とまで威勢良くはありませんが、降り積もる雪を冬の中での一つの美しい光景として見ることができているように思います。

六花とは言うまでもなく雪の結晶を意識した言葉ですが、純然たる結晶としての雪、ただ降り積もる雪が、なぜか美しく感じる、その心情を描いた曲だと思います。

2011年6月 5日 (日)

「心守歌」

どことなく民謡風の曲で、詞に深い思いが籠められているにせよ、歌詞の意味がどうこうというよりは音そのものが聴く者に一種のやすらぎを感じさせたり、憂愁の思いを呼び起こすものであると思います。

単調と言えば単調な歌であるし、それが何ら劇的な要素を持たない、ただしんどいだけの人生を象徴しているかのようで、ひどく虚しい気分になります。その中で「遥かな愛しいあの人」が暗闇の中の灯火のように浮かびつつ、やはり幻のようでもあり、その幻の幸せを願うことで僅かに己の心を慰めている、そんな情景であるように思います。
「風よ―どんな彼方にもひと晩で行って戻れ」という一節の「戻れ」という一言に心弱さが表れているようで、それがこの歌の本音でもあるような気がします。

「心守歌」というタイトルの通り、心を慰める、或いは辛い人生の中での安らぎを求めて風に願いを託す、そんな弱き心のための歌であるのだと思います。

2011年5月29日 (日)

「あのバスに」

「急いでた」の言葉の通り、何かに急かされるような焦燥感、突き上げるような衝動、そういうものに追い立てられるようにして飛び乗ったバスは市内循環バスだった、とは書いていませんが、新しい風景などないのだとしても、それでも飛び乗らなければならないのだ、と言わんばかりの勢い、抑えられない気持ちがあふれる曲だと思います。

「押しのけたあの傘に中に自分がいた気がした」、「遠ざかる古い樹は切り倒され」など、後悔ともとれるフレーズが見られますが、同時にもう後戻りできない、という気持ちもあるように感じます。むしろ、そうやって自分を追い込むようにして、先へ先へと急ぐ気持ちを奮い立たせているように思います。
「角を曲がり見たものは 数えきれない曲がり角だった」というフレーズも絶望を表しているのではなくて、多難を予想させつつもまだ見えない未来への期待をなお含んだ言葉であると思います。

とにかく急いで乗らなければならない、そんな説明不能な衝動と、もう乗ってしまって後戻りできない、行く先が思い描いていたような世界でなくてもとにかく進むだけである、という意思を書いた曲なのと思います。

2011年5月22日 (日)

「樹高千丈 落葉帰根」

優しい曲調で故郷の優しさ、器の大きさを歌っています。ここでの故郷は実像というよりは心の中の理想像、どんなに離れても最終的には還る場所、私を受け入れてくれる場所、心の拠り所としての故郷を言っていると思います。

「樹高千丈 落葉帰根」が中国のことわざであることをネット検索で知りましたが、その意味も曲中で語られることと同じであり、望郷の歌であることに間違いはないと思います。ただニュアンスは中島みゆき独自の観点ではないかと思います。
樹高千丈というからには相当に生い茂った樹木のはずですが、そのような勢い、巨きさは感じさせず、むしろ育てば育つほど、根から離れれば離れるほど心細く、儚くなる心理が描かれます。最早成長は終わりまで来ていて、もうあとは消えるだけ、いや消えるわけではない、還るべき場所がある、という、最終的な心の安らぎを求めているように思います。

または、現実には帰れないが心は最後に故郷を求める、ということを歌っているのかもしれません。「きっと抱きしめる」という言葉に見えるように、遥か望みの場所である故郷を描いた曲であるように思います。

2011年5月15日 (日)

「相席」

中島みゆきの曲に出てくる「私」と「あなた」以外の第三者、店だったりマスターだったりしますが、割とすっとぼけたキャラが多く、決してしゃしゃり出ないで二人を見守るような温かいものであることが多い気がします。かといって、二人の仲を繋ぎ止めるようなものでもなく、破局もただ見守っているだけで、そのまま思い出となって、二人過ごした日々の象徴として描かれると思います。

この店のマスターもかなり頼りない感じで、マスターとしては二流感が漂っています。そのマスターのミスをきっかけに二人が出会ったり、仲を深めていく様子がテンポ良く語られ、そのマスターがようやく気をきかせたと思ったら、かえって二人が別れるきっかけになってしまうエピソードが語られます。確かにマスターは二人の思い出の象徴に相応しい、というか、せめてそういうことにしておかないと、二人の日々が希薄になり過ぎるような、どう考えても記憶力が悪そうなこのマスターに縋らざるを得ない、そこに未練というか、もう終わったことながらせめて美しい思い出として心に留めておきたい、という儚い気持ちが見え隠れしていると思います。

そういう意味では、やや無理矢理にでも思い出化したい、その媒体がマスターである、ということなのかもしれません。思い出を語る曲ではなくて、思い出となれ、という願いをこめた曲であるように思います。

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