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2009年12月 6日 (日)

「かもめの歌」

ラストを飾るとも締めるとも言えない、重たい空がどこまでも続くような雰囲気。

かもめとは海辺に漂う「あきらめた人」や「泣いた人」たちの魂魄のようなものなのか、それとも、心だけが空へ昇った「私」のことか、「おまえ」のことか、或いは「笑っている女」のことなのか、それらは歌の中ではっきりとは示されません。
通り一遍的な解釈をするなら、必ずしもそれが望みでもないのに、そうなりたいわけではないのに、空へ昇ってしまう自分をかもめに例えて、ややニヒルに客観的に眺めている、そういう自嘲の歌のようにも思えます。

しかし、歌そのものは激しい感情の揺れが感じられ、ニヒルと呼ぶにはやや違うように思えます。感情の高ぶりとともに「其処で笑っている女」が唐突に現われ、そして消え、それは客観的に見えた私、というよりは夢中に見た一瞬の幻、という感じで、それが何だか解らなくても、とにかく雷光のように脳裏に見えた、というもののように思えます。

かもめとは何か、ということを考え込んだ曲ではなく、瞬間の浮揚と激情に見た幻を歌う曲なのだと思いました。

2009年11月29日 (日)

「孤独の肖像 1st」

これも再レコーディングですが、「miss M.」収録曲とはまるで別の曲のように思えます。というか、歌詞カードの下部に書いてある解説を読まなければ再レコーディングと気付かなかった程ですので、以下、前の記事は完全に忘れて感想を書きます。

肖像ってなんとなくポーズきめた人が取り澄ましているようなイメージですが、優れた肖像画や写真なら外面だけでなく、モデルの感情や気分、性格、あるいは生き方や思想など、内面(から滲み出る外面)の部分も捉えていると思います。
そして「孤独の肖像」ですが、対象が抽象的なせいか、取り澄ますどころか取り乱しているかのようで、得体の知れない暗闇がさざめきながら自身を取り巻いているような、それを振り払おうととすると最初からそんなもの無いが如く、振り払う手が虚しく空を切るような、そういうおよそ肖像化に向かない、形が定まらない流動的な何かを描こうとしているように思えます。

メロディは非常に綺麗で、それだけでも満足なのに、さらに大サビと言える最後の旋律がそれまでのサビを覆うように展開されて感動的な出来になっています。中島みゆきの歌声も若干ガラが悪い(失礼)ことも多かったこのアルバムの中で格別に綺麗に歌われているように思います。
取り澄ますと言えば、こじつけですが、この曲の美しさが既に一種の擬態のようなもので、我々はこの歌の綺麗さに惹きつけられますが、その内側を知るにつれ、どこまでも続くような夜の闇、孤独が確かにここにある、ということに気付かされます。

そして、(これもまた筆者のイメージですが)昼になれば何事も無かったように普通に振舞う主人公の姿も見えるような気がします。夜に訪れた不意の感情、孤独という名のついた抑制できない悲しさと淋しさ、そんな一夜を捉えた曲なのだと思いました。

2009年11月22日 (日)

「慟哭」

これも再レコーディング、と書きかけて、そうではなくアルバム初収録とわかって、若干混乱しています。筆者はこの曲を確かに聞いたことがあり、しかも工藤静香ではなく、この中島みゆきの「慟哭」を繰り返し聞いたような記憶があったからです。
多分、例によって盗賊さんのカラオケ、またはドライブ中のリピートで憶えてしまった、というところなのだと思いますが、だとするとせいぜい数回しか聞いていないのに、(しかも憶えようとも思っていなかったのに)はっきり歌詞やメロディーを憶えているなんて、非常にインパクトがある曲なのだな、と思います。

一晩中泣いて泣いて、そして友達ではない、と解ったのに、そのまま泣き縋らずに笑ってちゃかすなんて、ひどいやせ我慢だ、と思うのですが、この曲における「慟哭」とは声を出して泣く、という本来の言葉の意味とは裏腹に、心の中で泣き叫んでも絶対に表に出さない、という矜持と忍耐の意味を多分に含んでいるように思います。いかに好きだろうが、泣くほど悲しかろうが、弱みを相手に見せない、そういう「強い」女性像が描かれていると思います。
つまり、やせ我慢の歌だと思うのですが、そうやってやせ我慢しているときに「お前も早くだれかをさがせよ」と言われた日には殺意が芽生えても不思議ではない、と言いたくなるほど、「からかわないで、エラそうに」は憎々しげに歌われていると思います。

短いストーリーに激しい感情の抑圧と解放が繰り返される、ダイナミックな曲だと思います。(工藤静香の)シングルとしてヒットするのも納得の曲だと思いました。

2009年11月15日 (日)

「雨月の使者」

「行かなくては 行かなくちゃ」と言いながらも、どこかに行くというよりはふらふらと森の中に迷いこんでいくような、そんな「夢の中」の情景が描かれる、非常に叙情的な曲だと思います。いつもより幻想的な詞だな、と思い、歌詞カードを見てみると作詞は中島みゆきではなく唐 十郎という劇作家であるということを知りました。

そういう先入主で聞いたせいか、どことなく演劇的とでもいうか、ある幻想が切り出されて一シーンとして歌の世界に投影されているような、暗くて孤独で、蕭然として美しい独自の世界が屹立してるような印象を受けました。歌声も中島みゆきの癖が抑えられて、丁寧に、詞の世界をつくりあげるようにして歌われていると思います。

バラエティ豊かなこのアルバムの中でも、かなり毛色が異なると思います。こういう曲もあるのだな、と、中島みゆきのキャリア(この後もずっと続きますが)に感じ入る次第です。

2009年11月 8日 (日)

「流浪の詩」

これも再レコーディング。タイトル通り、あてどもない流浪の生き方を歌う曲ですが、前よりもさらに陽気におどけて、相変わらず「黄色いジャケツ」は見つかりそうにもないのですが、何だか前途は明るいような気がしてきます。

世につれ歌につれ、なんて言葉がありますが、確かに歌とは絶対不変なものではなく、同じ曲でも時代が変われば形が変わったように見えるものです。
特に中島みゆきは時の流転というものを強く意識しているようで、100年経っても通用しそうな普遍的なテーマを歌いつながらも、こうして再レコーディングで新しい時代に相応しい、新しい解釈を与えようとしていると思います。
中島みゆきにおける普遍は不変ではなく、変わり続けるということである、ということを最も端的に表す曲がこの「流浪の詩」であるように思います。

と、曲の感想ではなくなってしまいましたが、強いて書くなら前のバージョンの方が素朴な感じで筆者の好みです、などと代わりばえしない自分の感性に唖然としつつ、ひとまず記事を終わりたいと思います。

2009年11月 1日 (日)

「あたし時々思うの」

つぶやくように、独り言のように始まるこの曲は、そのまま独り言のまま終わるような、導入部がいつまでも続くような、漠然としてとりとめがない、不思議な感じの曲です。

この曲では、「若い」という言葉と「命」という言葉が、同一かのように、相反するかように、非常に微妙な均衡を持ちながら、「あたし」の心情の中で何度も擦れ違っているように感じます。取りようによっては、若くない=命の終わり=死であり、為すこともなく朽ちていく絶望的な思いを綴っている風にも思えます。少なくとも「若くなくなった私たち」には、あまり前向きな意味は感じられず、途方にくれているような不安感ばかりが募っているように思えます。

筆者が思うに「若い」とは無限の希望と時間があるということ、或いはその錯覚のことで、対して「命」とは有限でどれだけことができるものでもない、という平凡な事実を指すのではないかと思います。「若くなくなる」とは無限の錯覚から醒めて、有限の命に気づく、そんな心理のことだと思います。
だから、若くなくなる=死ではなく、むしろ命というものと向き合うようになった、という意味なのだと思います。

だからといって、命は大事である、限りある時間を大切にしよう、と悟ったり、諭したりする曲でもないかと思います。「あたし時々思うの」のタイトル通り、ふとした瞬間にそのことを思うことがある、それを思ったときに堪らないような気持ちになる、そんな正直な気持ちを歌った曲なのだと思います。

2009年10月25日 (日)

「夢見る勇気」

また24時間TVか何かのテーマとして掲げられそうな、前向きで輝かしい感じのするタイトルですが、歌の中身は、もう放っといてよ、と言わんばかりの、ヤケになっているような、およそタイトルとは相反した殺伐とした雰囲気が漂っています。

この曲は自虐的にも聞こえるし、開き直っているようにも聞こえます。どちらにせよ「夢見る勇気」を100%前向きな意味では使っていないのですが、それでも1%くらいは肯定しているようにも聞こえますし「ちから」を「勇気」と書いているあたり、単に能力、生まれつきそういう力を持っているというのではなく、困難や悲しみを予測しつつ、敢えて行う、という意思としての「ちから」を意味しているように思います。
もっとも「ちから」を「意思」と捉えると、「夢見る意思」という何だか矛盾した言葉が並んでしまい、このあたり、必死に頑張って妄想をしているような、夢と現実の狭間で夢の方へ向かって必死で足掻いているような、そういう虚しさもこの歌に含まれていると思います。

結局「夢見る勇気」とは、闇夜の炬火のごとく、その示す先が正しいかどうかわからずとも、とにかくそこへ行くしかない、そんな心情を表しているのではないか思います。

2009年10月18日 (日)

「あどけない話」

比較的簡素な演奏で歌を聴かせる曲ですが、歌自体もやや控えめで、内へ内へと籠もっていく印象です。

タイトルが「あどけない話」ですが、歌ではのっけから疑念を呈している、もしくは有り得ない、を前提としているようで、「あどけない」とは真逆の心情であるように思えます。
しかし、後半ではむしろ積極的に信じたい、たとえ嘘だろうと本当だろうと、頷いて肯定したい、というような感じに変化します。

「私 うなずきましょう」という歌詞から、「私」は話を聴いている側で、また、「人は愛すると(中略)夢を聞かせたくなるわ」という詞と併せて、「私」は愛される立場である、と考えられます。
有り得ない話だろうと、あなたが私を愛するなら信じましょう、という意味にも解釈できますし、相手が語る都合の良い話を「私を愛しているから」だと、無理にでも愛だと解釈したい、という風にも聞こえます。

「あどけない話」とは、おとぎばなしと最初からわかっていながら、あどけないふりをして騙され続けたい、また、そういう気持ちを抑えられない、という意味ではないかと思いました。

2009年10月11日 (日)

「ローリング」

これも再レコーディング曲ですが、よりコブシというか、ドスがきいた歌声になっていて、より直情的に、シンプルに訴えかけてくる曲に仕上がっていると思います。

「Age」には年齢という意味も、時代、世代という意味もあり、この曲ではどっちの意味にも取れると思いますが、この「時代 -Time goes around-」というアルバムに入ると、やはり後者の意味を考えさせるところがあります。
そこで一曲目の「時代」と比べてしまうのですが、短兵急にサビになだれ込む構成といい、「僕は荒野にいる」という地面におり立った視点といい、この歌のおける時代とはまさに今此処にいる、という実感を指すのではないかと思います。
「Rollin' Age」も「時代は回る」と訳せなくもないですが、「Time goes around」と比べるとその場で回っている、あるいは転がっているいう印象で、時代は緩やかに大きく巡る、ではなく、慌しく転がっている時代と一緒になって私も激しく転がっている、という雰囲気だと思います。

あたかも「時代」が公転を歌っているのなら、「ローリング」は自転を歌っているようです。この曲において、ロングで見ていた視点がぐっと対象に近づいたような印象を受けました。

2009年10月 4日 (日)

「風の姿」

盛り上がらないと言えば、盛り上がらない。ここのところ劇的な曲が多かったせいか、燻り続けるような心を歌った曲が新鮮に感じるというか、奇妙なリアルさを持ってずしりと響きます。

「風の姿を誰か教えて」と言っておきながら、この曲ではそんなものは無い、と明白に否定しているかのようで、そういう姿形を求めるというより、もっと実感的な、例えば風に触れ、風を感じるように愛を感じたい、と言っているように思います。
また、流動的で掴みがたいものを掴もうと、また流動的であり過ぎた自分への自嘲と、もう風を追いかけるのはたくさんだ、という無為の思いも籠められていると思います。

そうやって不満とも渇望ともつかない感情を抱きながらも、じゃあどうにかしよう、自分からやってやろう、とはならず、あくまで待ちの姿勢のまま時を過ごす、高まる内圧を静かに描いた曲、という印象を受けました。何も起こらない部屋で嵐を待つ、そういう執念とでもいうか、ある種の凄惨さを伴った迫力のある曲だと思います。

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