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2013年6月30日 (日)

「ばりほれとんぜ」

これも細かい解釈は無用のようで、「ばりほれとんぜ」というワイルドというか粗野というか、有無を言わさない迫力で押し切る曲だと思います。

筆者は「ばり」という言葉は何となく福岡の方言かと思っていたのですが、ちらっと調べてみると九州の他の地方や広島、神戸あたりでも使うそうで、「Br」という破裂音に日本語らしからぬ派手さというか威勢の良さを感じます。続く「Hr」でも舌が激しく振動しているような発音で、「BrHrrrTon-Zei」と何かの呪文でも唱えているのかと思えるくらいの異様なインパクトを持ってこの言葉は発せられていると思います。
つまるところ中島みゆきは「ばりほれとんぜ」と言ってみたかった、発音してみたかっただけではないか、という単純な感想を久々に持った次第です。

コントロールの効かない気持ち、迷いや躊躇いを「ばりほれとんぜ」という問答無用の確信で蹴散らす痛快な曲だと思いました。

2013年6月23日 (日)

「彼と私と、もう1人」

正直言うと、どういう状況なのかは今ひとつ分からないのですが、ホラー&サスペンスな感じで、「彼と私と、確かにもう1人」と結ばれた後、意味ありげな後奏が鳴り響いて何だか怪談でも聞いた後のような不気味な後味があります。

「疑いようもなく運命を結びあい」、「私たちは呼ぶ 心と心で」と、不安を吹き払うように二人の結びつきを強調した後で、「そののち気がつく 彼と私と、どこかにもう1人」と、一度持ち上げて落とすようにしてぞくっとくるような恐怖を演出していると思います。
「もう1人」というのが本当に怪談に出てくるような霊的な存在なのか、それともストーカー的な存在で、二人はどこからか監視されている、という恐怖なのか、それとも過去の亡霊的なもので、いつまでも彼または私の心の中から消えない、忘れられない存在で今の二人の生活を軋ませるような存在なのか、筆者としては怪談とかストーカーなら純粋に怖いだけですが、過去の亡霊となると非常に嫌と言うか何かへこむ感じですが、中島みゆきの歌ならばそういうニュアンスが強いのではないかなあ、と勝手に想像して微妙に気分になりました。

その辺りはどうとでも解釈できるようになっていると思いますが、結ばれても、誓ってもまだ拭えない不安感、いつまでも心に引っかかり続ける存在、そんな平穏であるはずの生活の中の違和感、漠然とした恐怖を歌った曲なのだと思います。

2013年6月17日 (月)

「鶺鴒(セキレイ)」

どことなく民族歌謡風、郷愁を感じさせる曲調と詞が懐かしさと共に悠久に続く田舎の空と草を思い起こさせて、人が抱える漠然とした不安感を慰めるような緩やかで穏やかな曲だと思います。

「心許無く鶺鴒の」と、鶺鴒がある種の不安感の象徴、或いは不安な心が向かう先、安らぎの象徴のように描かれていると思います。何故それが鶺鴒なのか、と考えるのは無粋かもしれませんが、以下つらつらと考えてみました。
鶺鴒は一説に夫婦和合の象徴で、それが生命の営み、引き継がれる命という意味合いで「人は永遠に在らねど 咲き遺れよ心」とつながるのか、またはただ単に鶺鴒が日本や世界各地の田舎で見られるお馴染みの鳥で、郷土の象徴とするにに相応しい、ということか、もしくは鶺鴒のある一種は日本にしか見られないということがあり、「永遠に在れ国よ」という言葉と合わせて、日本の国家繁栄を期した曲である、という見方もできなくもないかもしれません。
と、ぶちあげてみたものの、どうも子孫繁栄、国家繁栄というような華々しい雰囲気の曲ではなく、冒頭にも書いたように「人は永遠に在らねど」という漠然とした不安を、「咲き継がれよ心」というように心はつながって行く、という言わば心の在り方に平安を求める歌であるように思います。鶺鴒は郷土の象徴であって、その姿を透かして継がれていく人の心を見るようなものなのだと思います。

2013年6月 9日 (日)

「あばうとに行きます」

中島みゆきの歌と言えば、全ての曲がそうというわけではありませんが、どちらかというと肩に力が入り過ぎていたり、考え過ぎて頭の中の袋小路に行き詰っていたり、「あばうとに行く」とはむしろ対照的なイメージがありますが、この歌ではそんなイメージにもお疲れなのか、もう悩み疲れた、何も考えない目的のない旅に出たい、とそんな雰囲気が出ていると思います。

特別な解釈が要るような難しい曲ではないと思いますが、「切符をください私にも それだけ言いたかった」からは、「あばうとに行きます」がごく小さな、衝動的な願望であることが窺えます。先案じや批判を忘れて私も旅に出たいと誰かに言いたい、本当に旅に出るかは別にしても私にだってそんな時があることを解ってほしい、という意味がこめられているような気がします。
「あばうとに行きます」は本当に今後はアバウトに行く、という宣言ではなくて、そういう時もあるよ、というふとした衝動を言っているのはないかと思います。

「ひとまず普通に呼吸をしてみます」なんてお疲れが過ぎている感もありますが、この歌はきっとあばうとにはなれない人を歌った、ささやかで切実な願望の歌であるように思います。

2013年6月 2日 (日)

「BA-NA-NA」

アジア人なのに西洋人ぶりたがる日本人のことを反感と軽蔑を以って「バナナ」と呼ぶことがある、と聞いたことありますが、この歌はもろにそのことを歌っているわけで、「バナナ」である「私」を自嘲するような、冷笑するような、怒りとも悲しみともつかない激しい感情が渦巻いていると思います。

「アジアの国に生まれ来て アジアの水を飲みながら」と、アジアであることが繰り返し強調されています。しかし、我々は(筆者だけかもしれませんが)普段アジア人であるという自覚はあまりなく、もしアジア人であることを強烈に意識することがあるとするなら、それは差別を受けた時、或いは見聞きしたときであるように思います。
バナナという言葉に日本人が同じアジア人なのにアジア人を見下している、というニュアンスがあることを考えれば、この歌は差別する側である日本を批判しているようにも聞こえます。また、「強い国の民を 真似ては及ばず」、「今日も思い知らされる」という詞からは一種の劣等感、或いは差別を受ける側の立場であることも読み取れます。
この歌はそういう奇妙な板ばさみの感情、差別されたくないと思いながら差別をしているという滑稽な立場、強い国への憧れと混ざろうとして混ざれないという現実、そういったものが織り交ざって「BA-NA-NA-NA-NA-NA」という馬鹿馬鹿しく、それでいて激しい叫びになっているように思います。

だから何、と言われると困りますが、多分この歌はアジアの一員であることを自覚せよ、という啓蒙的な歌ではなくて、もっと直感的に感情的に差別に対して憤っている、もしかしたら中島みゆきの体験によるものではないか、と想像します。

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