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2006年2月12日 (日)

「ボギーボビーの赤いバラ」

「バラが枯れた」という取り返しのつかない事実を軸にせつなさや虚無感を聞く者に喚起させる、というシャボン玉とんだとよく似た感じの曲かなと一回目に聞いたときは思いました。構成もちょっとだけ似てますし。

が、歌詞カードとにらめっこしながら何度も聞いてみると(この聞き方は必ず歌詞の解釈論に陥るのですが)まるで違う曲であることに気づきました。

バラを捨てたのがボギーボビーなのか(それともボギーボビーがバラなのか)は私には判然としませんが、どうもバラに対する愛惜と同じかそれ以上にきれいでなくなったからと捨てたことに対して強力な感情(怨み?)がある気がします。

単純にサビに「捨てただろう」が来るためにそのように感じるんでしょうが、このサビさえなければまさしくシャボン玉とんだか夕焼け小焼けのようにああ寂しいねで終わると思います。唐突といっていいほどに「捨てただろう」、「捨てただろう」と連呼されるためにさっきまで泣いてた人が突然怒りだしたかのような怖さと不条理さを感じました。

結局はまたしても中島みゆきに責められているような気になったんですが(思い当たる節はないのに)、毎回こんな風に感じる私はなんなんでしょうか。エム気質?

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コメント

おもしろい!
覇龍社会さんの解説は曲を知らなくっても
とても面白いです.
「捨てただろう」って,「あんたバラが
枯れたからって捨てんじゃないわよ」
っていうことでしょうか?
「わたしが年取って美しくなくなった
からって捨てんじゃないわよ.
怨むわよ」っていう裏の意味がやはり
中島みゆき姉さんだけにあるのでしょうか.
やはり曲をきいたことのない私ですので
「捨てただろう」っていう言葉だけで
解釈するとファンの方にアホか!!と
怒られそうですが.

トーコさんこんばんは。面白く読んで貰えれば幸いだ。曲を聴かずに記事のみを読んでコメントするのも、また有りかと思う。(俺の感想文だけを読んで曲が解った気になったら危険だけど)

裏の意味という程でもなく、枯れた(=きれいで無くなった)バラと自分を重ねる部分はあるかとは思う。しかし、必ずしも自分のことを歌っているのではなく、美しさばかりを価値基準にする男一般に対しての批判と、それでいながら美しさを価値と認める自分、さらにはバラの美しさなんて枯れたお終いなのよという皮肉などが織り込まれた複雑な感情の曲だと思う(無論、これも感想に過ぎないが)。
中島みゆきの曲は(まだ4曲しか聞いていないが)感情的なのにその感情が一筋縄では無いので複雑怪奇さにビビってしまう。

【感想】
 難問である。4曲目にして、非常に解釈しにくい歌だと思う。
 この曲に対して、覇龍社会さんがどういう解説を書くのか、非常に楽しみにしていた。思いのほか更新が遅かったので、それまでに何度もアクセスし、ブラウザの「更新」ボタンを押してしまった。アクセス数が多かったとしても、そのほとんどは僕だろうと思う。

 そもそも「ボギーボビー」の意味が分からない。
 意味が分からない言葉はそのままにして先に進むのが良かろう。僕が最初にこの曲を聞いた時もそうしたし、今、改めてこの曲を聴き、ヤフーやらグーグルやらで検索してもヒントになるようなものは見つけられなかった。念のためウィキペディアでも調べてみたが、「ボギーボビー」の項目はなかった。

 しかし、言葉というものは意味が分からなくてもある特定のイメージを与えてしまうもので、僕の場合、それは「赤紫のスーツを着て腕を変な方向に曲げて死んでいる世良公則」である。ただ単純に、『太陽にほえろ!』の「ボギー」なんだが。
 よって、僕はこの曲を聞くたび、赤紫のジャケットの胸ポケットにささっている赤いバラと、それが枯れてしまったので七曲署の給湯室の生ゴミ用のゴミ箱(ステンレス製で、ペダルを踏むと蓋が開くタイプ)に捨てる世良公則を思い浮かべてしまう。
『太陽にほえろ』のような名作刑事ドラマはもう生まれないんだろうなあ。と、ちょっと感傷的になってしまうのも、この曲のイメージである。

 ところで、僕はたかだかファン歴10年だから、この曲をリアルタイムで聴いていたわけではない。最初にこのアルバム(「私の声が聞こえますか」)から聴いたわけでもない。
 僕が中島みゆきを知った頃は、既に中島みゆきはもっとポップスっぽい曲を歌っていた。肩書きはシンガーソングライター。それからいわゆる「暗い曲」を聴き、ロック調の歌を知った。もともとフォークシンガーだと知ったのは、もうどっぷりファンになってからのことである。
 この曲を聞くと、最後の「♪ドゥドゥドゥ……」のところで、なんかフォークっぽいなと思ってしまう。フォークの定義はなんだと言われたら困るけど、僕のフォークのイメージはこの曲の感じである。中島みゆきの曲の中では珍しく、メロディー重視で聴いてしまう曲でもある。

笑った。そんなに世良公則のイメージが強かったら他のイメージは湧き辛かろう。自分に刺さったバラを自分で捨てるのもシュールだ。
俺もちょっとだけネットで調べてしまったが、ボギーボビーは結局は謎の存在みたいだね。30年経っても謎のままとはステキな。

【解説】
 覇龍社会さんの読解力、読みの鋭さ、ストレートな解釈には舌を巻くばかりである。1曲から読み取れるものを過不足なく解説しきっていると思う。余計な知識をつけてしまった僕には到底できない。僕はどうしても、数ある名曲の中にその一曲を位置付けてしまう。
 とうこさんの感想は無邪気で「楽曲は生まれた時に生命を持ち、時代によってその意味を変える」という見地に立てば、その感想もアリだろう。中島みゆきを聞く分には実に正しい姿勢といえる。「ボギーボビーの赤いバラ」に関しては、僕の感想も極めて邪道である。
 だが、せっかくだからとうこさんには「ファンの方」である僕が「アホか!!」と言っておこうか。

 結論から言うと。
 この曲が収録されたアルバム『私の声が聞こえますか』は1976年発売である。中島みゆきは1952年生まれだから、オントシ24歳。まだぴっちぴち(死語?)に若いのである。「年取って美しくなくなった」ってことはない。
「年取って美しくなくなっても捨てるんじゃないわよ」という未来に向けた警告という可能性は文法上はありうるが、中島みゆきの世界観からはあり得ないと断言してよかろう。「年を取って醜くなることへの恐怖」といった、世界のミシマ的な感覚は中島みゆきにはない。
 結果的に言えば、中島みゆきは年を取るごとに美しくなっていったのであり、今でこそ「綺麗な50代」であるが、この頃は良く言えば「角度美人」、ストレートに言ってしまえばブスである。フラれた曲にも説得力があり、虜になるファンがいてもおかしくない、絶妙な容姿だったと言えよう。

 では、「ボギーボビーの赤いバラ」に託された思いとは何か?
 そのほとんどは覇龍社会さんが触れているのだが、あえて付け加えるとすれば「将来に対する漠たる不安」である。
 その思いは、プロデビュー前の1972年に「全国フォーク音楽祭全国大会に入賞」(サイト「中島みゆき研究所」より)したという「あたし時々おもうの」(1993年発売アルバム『時代-Time goes around-』に収録)で端的に歌われている。

  若くなくなったあたしたちは
  いったいどんな顔をして
  行きかえばいいの
  いったいどんな顔をして

 中島みゆきの底流にある世界観は、代表曲「時代」が歌うように、「輪廻転生」である。くり返し生まれ変わることで成就される思いを歌うこともあれば(「HALF」「命のリレー」)、くり返しの中で起こる1回きりの奇跡を称える歌もある(「誕生」「地上の星」)。移りゆく、変わらざるを得ない大きな流れの中で、変わらずに残るものは何か、いつの時代にあっても価値のあるものは何か、それをつきつめていくのが中島みゆきである。
 若かりし日の中島みゆきは自身をも大きな流れの中に置き、「若くなくなった」「枯れた」自分はどれほどのものを見出しているのか、どれほどの価値を持っているのか、大きな、しかし漠然とした不安を持っていたのだろう。「捨てただろう」というフレーズは、「捨てられるほどのものしかないんだろうな」という自嘲や謙虚、加えて「世間は見てくれの良さにしか価値を置かないんだろうな」という諦念や皮肉を込めているものと言えるだろう。
 

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