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2009年7月19日 (日)

「炎と水」

前曲とうって変わって、抽象的な歌詞で、何を言っているのやらよくわからないながらも、迫るような歌声が有無を言わさず、何だかわかったような気にさせる、不思議な力のある歌だと思います。

炎と水は対極として扱われることが多いようですが、この曲では陰陽のような、互いの中に互いがある、常に一組のものとして描かれています。どちらか一方が、ではなく互いに互いを必要とする、ということがこの歌の主張であり、叫びであり、最も劇的な独断であるように思います。
翻って考えれば、所詮炎と水は相容れない存在のような気がするのですが、それでもこの歌では根拠無く(根拠など不要でしょうが)、お互いが必要としている、と決めつけることにより、あてどない想いが幻想の想いを一対として情景に収まり、歌として完成していると思います。

この歌の「あなた」は抽象的観念のようにも思え、恋愛よりもっと深淵にある人間性を歌っているようにも思えますが、筆者は二つで一つになることを願う、強烈な片思いの曲であるように思いました。

2009年7月12日 (日)

「南三条」

この曲も盗賊さんのカラオケを聴いた記憶があるような、それが記憶違いだとしても、エコーのきいたボーカルに、勢いのあるサビ、ホーンやシンセサイザーの響きといい、とってもカラオケチックな珍しい感じの曲だと思います。

歌詞もやや散文的なストーリー仕立てになっており、誰が聞いても状況が分かるような分かり易さで、段々によみがえる記憶と意外な結末が描かれます。行き場のない感情が過去へと逆流していくようなサビはまさに「よみがえる夏の日」であって、過去と現在が南三条あたりで交錯する瞬間を描いた見事な歌詞だと思います。

しかし、冷静に考えてみればありふれたストーリーのようでもあり、その勢いに押されながらも、何だ大したことないじゃんと言いたくなるような曲でもあります。冒頭カラオケチックと書きましたが、客観的に大事件かどうかというより、とにかく激情を発し、南三条を泣きながら走る、と、実はそういう曲なのではないか、と思う今日この頃です。

2009年7月 5日 (日)

「サッポロSNOWY」

雪国の人にとって雪はロマンチックなものではなくて、生活に密着した非常に現実的なもの、という風に思っていたですが、この歌では雪は象徴的で幻想的なイメージであり、まるで雪を知らない人が想像で語っているかのようです。

一つには「天気予報 長距離で聞く」というフレーズから、今札幌に居るのではなく、遠くから札幌を思っていることがわかり、遠くから懐かしむとき雪のイメージがより美しく純然としたものになる、ということがあると思います。
もう一つはあの人に見せたい雪、というものが現実そのものの雪ではなくて、言葉にならない雪、雪に包まれたサッポロ、という心の中でイメージを目いっぱい膨らませた心情、心象風景であるからだと思います。

SNOWYという言葉が聞き慣れなくて一応辞書を引いてみたのですが、雪が多いという第一義の他に、雪のように清い、という意味もあり、あの人への叶わぬ想いを雪に託しているようで、大変切ない歌だと思いました。

2009年6月28日 (日)

「た・わ・わ」

「おまえを殺したい」というストレート過ぎて、却って不意打ちをくらったような唖然とした気分になれる強力なサビを持ちながら、全体としては攻撃的というより、ポップでコミカルな感じが漂う、陽気と狂気の不思議なバランスを感じさせる曲です。

歌なのですから無敵のヒーローだろうがグラマー美人だろうが、好きなような自分になりたい放題なはずで、むしろそういう自己同一に酔うことが歌の醍醐味とさえ言えるのに、中島みゆきの中ではこの歌の女性像は絶対に相容れない存在なのか、途中までは礼賛しているかのようでありながら、サビでは夢から醒めたように一転して「殺したい」という完全否定に走ります。
或いは、この女性像は一種の理想像であって、理想と決してそれになれない現実の私、という対比を鮮やかに浮かび上がらせ、また、それを叩き割ることでそれら迷妄から逃れようとしているのかもしれません。

歌では「た・わ・わ」のtの音が聞こえず、「あ・わ・わ」に聞こえますが、それが夢と現実の境、意識と妄想の混乱を表しているようで、非常に幻覚的で混沌とした曲だと思いました。

2009年6月21日 (日)

「笑ってよエンジェル」

やんわりと振っているような、振られているような、何もかもあきらめているようで、愛しているかのような、それら全てを包み込むような悠遠な雰囲気が今までにないようで、ちょっと新鮮な感じがします。

「笑顔でさえあれば良い」というのは特に斬新な主題ではないと思いますが、非常にささやかな望みであるようでいて、身の程知らずな高望みのようでもあり、利他的にも利己的にも聞こえ、色合いの複雑なこの歌によく似合っていると思います。
何もかも含んでいるかのような曲なので、どの節で誰が誰に向かって何を言っているのか、様々に解釈できそうで、気分次第で別々の意味に捉えるようにするのが楽しいかもしれません。

このアルバムでは中島みゆきの視点というか視角が少し大きくなったような印象を受けます。今までも対象を突き放したような大きな視点の曲はありましたが、このアルバムでは対象の大きさはそのままに、より多くの背景や気持ちを取り込んでいるような気がします。そんな雰囲気を象徴するような曲だと思いました。

2009年6月14日 (日)

「永久欠番」

これまでは隠喩的に語られていたり、或いは背景や基礎として存在し、前面には出てこなかった死生観がもろに語られている、ある意味衝撃的な曲のように思います。

と言って、人の死、特に自分の死に関してはリアルに考えこまない筆者にとっては、「宇宙の掌の中」というフレーズに途轍もなくちっぽけながらも、無数の人生が煌いているような美しさを感じつつも、最後の「永久欠番」の力の入り具合にはむしろ可笑しさを感じてしまい、どうやらこの歌を語る資格はないような気がします。

で、代わりと言ったら何ですが、筆者の母の話をしたいのですが、それはある老齢の女流作家の作品や半生を振り返るというTV番組で「近頃は死ぬことについてばかり考えています。」という作家の言葉に対し、「そんなこと考えないで下さい。」と比較的若いインタビュアーが返したときに、母が「どうして死ぬことを考えたらいけないの。死について考えるの良いことよ。」と言った、というエピソードなのですが、筆者はこれを聞いて若さの傲慢と老いの弱気の対照を感じ、さらには良い悪いは別にして、どちらも自然な感想であるように思いました。死という前提がせりあがって来ているか、眼前にあるかないかの違いであるように思えるのです。

このアルバムを出した頃の中島みゆきは無論、老齢ではないのですが、きっと死について深く思うところがあった、或いは普段から考えている人なのではないかと想像します。そして筆者がこの歌に共感できず、驕りと共に受け流すのも自然だとも思うのです。

2009年6月 7日 (日)

「渚へ」

どんよりとした渚、重苦しい海風、そんな風景が目に浮かぶようなずっしりとした歌声が印象的な曲だと思います。メロディーはポップだし、「渚へ」の繰り返しがもっと爽やかに響いても良さそうなのに、鉄球でも引き摺っているような足取りの重さが感じられます。

今まで聴いてきた印象では中島みゆきが描く「海」はそれまでの自分や世間、未練やしがらみと決別された別世界の象徴のように描かれていることが多いと思います。と、すると、「渚」や「港」はその境界であって、過去との別れの場でもありながら、それらが最も胸に迫ってくる、いわば未練が最大に膨らんでしまう場でもあると思います。この曲では決別のため渚へ出てきたものの、むしろより大きく、重たくなっていくような想いにじっと堪えている情景を歌っているのだと思います。

いつもより長めの間奏を聴きつつ、渚に打ち寄せる波がただ繰り返される様子が目に浮かぶように感じられました。

2009年5月31日 (日)

「Maybe」

この曲も捨てきれない思いを引きずり続けるような歌詞でありながら、意外と速いテンポで流れるように過ぎていく、それこそ人生の縮図のような歌だと思います。

前にも書いたような気がしますが、「なんでもない」を連呼する人が何でもないわけはなく、ましてこの曲では「自己暗示」だと種を割るかのような告白があり、痛ましいとも何とも言えないような気持ちにさせられます。
「もしかしたら」は夢と希望に満ちた気持ちというより、強がることに疲れを覚えた時、一体自分は何のために誰のために疲れているのだろうと思った時に、無ければならない何か、無理にでもあると思いたい何か、そういう疲れたときに見る幻のような、儚くて掴みどころのない、それでいて縋りたくなるような感情を表してるように思います。

「なんでもないわ私は大丈夫なんでもないわ私は傷つかない」と、一気にまくしたてた後の、心の空白に満ちてくる潮を描いた曲なのだと思います。

2009年5月23日 (土)

「トーキョー迷子」

そんなにインパクトはない、普遍的なメロディと構成を持った聴き易い普通の曲という印象で、「トーキョー迷子」というタイトルといい、深遠な哲学を語るとかではなく、馴染める歌ものを意識しているのではないかと思います。

そういう印象である以上、無理に深読みすることもないのですが、迷子という語感に様々な含みを持たせているように思います。
迷子とは言うまでもなく親とはぐれた子供のことで、言い換えれば見失っただけであって、本当に失ったわけではない状態を指しているとも解釈できます。この歌でも「あいつ」を見失っただけで失くしてはいない、いまだに捜し求めている、或いは捜し求められているはずだ、という気持ちを残しているように感じられるし、さらに突っ込んで考えれば、求めている「あいつ」とは最早貌だちが変わった実物のことではなく、心の中のありえぬほどの綺麗なそれであるようにも思えます。

「ありえぬ」と断じながらも、同時にどこかにいるはずとも思ってしまう、ありえぬ人を捜し続け、求め続ける、そういうアンビバレントな心情を歌った曲なのだと思います。

2009年5月17日 (日)

「おだやかな時代」

荘厳で妙にちぐはぐとした前奏、どことなく違和感漂う手拍子、なぜかゴスペル風のラストなどなど、この楽曲自体が時代への違和感を表しているのではないかと思える、そんな中途半端さを感じさせる曲だと思います。

穏やかな時代とは表層だけの穏やかさ、優しさが横行する世間や世相を指すと思うのですが、そこから抜け出すとは真の穏やかさを身につけることなのか、それとも真の獣になるということなのか、わからないまま迷いの中でともかくも一歩踏み出しているような印象です。
穏やかな時代への反発を示しつつも、飛び出すという感じではなくて、恐る恐るドアを開けて様子を窺っているいるような、まだ後ろをちらちらと見ているような、まさに「少し抜け出した」状態での逡巡を描いているように感じました。

そういう迷いがこの歌を小さくしているようでもあり、大きな感動を呼び起こすような歌ではないと思うのですが、逆に小さいからこそのリアルさ、共感を感じることができる歌だと思いました。

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