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2008年12月21日 (日)

「吹雪」

人恋しさを歌ってきたこれまでの流れなど無視するかのように、気がつけば名も無き人たちと形無き恐怖に取り囲まれているような、吹雪というより深雪に鎖されているような、静かで排他的な雰囲気を感じさせる曲です。

中島みゆきが人間の集団や時代の流れなどマクロなもの視るとき、その視線は好意的なものではなくて、冷たくて傍観的であることが多い気がします。
この曲でも名も無き人たちを圧殺するような重苦しい時代の空気を歌いながら、助けるわけでもなく、励ますわけでもなく、どちらかといえば超然と佇んでいるような感じがあります。
しかし、一瞬同調するかのように感情が高まる部分があり、その深刻な同情の中に雪に埋もれている自分を発見するかのようで、むしろ見たくないもの見たような、いたたまれない気持ちを呼び起こします。

結局は傍観者にもなりきれず、かといって助けられるわけでもなく、なんだか救いがないようにも思えます。多分降り続ける雪に埋もれ軋む人達の、その軋む音を描いた曲なのだろうと思います。

2008年12月14日 (日)

「涙 -Made in tears-」

「男運は悪くなかった」という控えめなんだか、負け惜しみなんだか、ひどく情けない響きのサビを持つ曲ですが、後悔と懺悔にあふれているわけではなくて、案外気はしっかり保っているように感じます。

運とは一面巡り合わせのことので、その点、出会えたということは確かに運は悪くなかったはずです。しかし、出会うまでは運だとして、その後は一体何が悪かったというのか、その辺の過程は曲の主題ではないわけで、ただ煙や涙の中で悪くなかったあの頃へ瞬間跳躍的に思いを馳せる曲のように思います。
もっと言うなら、その頃はその頃でもう完結してしまっていて、過去のことになっているからこそ、「悪くなかった」と言い切って、その頃と今を往復することができるのだと思います。

或いは、そう言い聞かせて忘れようとしている曲とも思えますが、過去から今も足元に絡みつく記憶を、鋲を打つようにして思い出と化すことで断ち切って、自身はむしろ先に進もうとしているように思えました。

2008年12月 7日 (日)

「愛よりも」

破滅的、と言ってしまえば身も蓋もないでしょうが、見えないものを信じるな、形無いものを欲しがるな、と言っておきながら自身は「人恋しさ」というひどく朧げで、およそ形を残さないものと共に崖から身投げして波濤に砕け散るような、そういう究極的な自分勝手さが強力な印象を残します。

愛よりも夢よりも上位にある、もしくは深奥にある「人恋しさ」とは一体どれほどのものなのか、筆者には想像がつきません。或いはこれらの序列が理路整然と定められているわけではなくて、売り言葉的な勢いで瞬間的に吹き上げてくる感情を「愛よりも」と表現しているのかとも思います。
悪人になりなさい、という言葉も人に薦めているわけではなく、この勢いに任せてなにもかも投げ打って人恋しさに溺れたい、という自分がそうしたいことを自分に言い聞かせているように思えます。

いずれにせよ激情に身を任せて、千尋の海にダイブするような歌だと思います。
それだけに次の日には「そんなこと言ったっけ?」と夢のように忘れてケロッとしている、そんな予感もするのですが。

2008年11月30日 (日)

「たとえ世界が空から落ちても」

消え入りそうな声で相変わらず極端な言葉が綴られ、聴いている人が何故かハラハラしてしまうような危なっかしさを感じさせる曲です。

「やさしくしてくれるなら」という条件付の愛ながら、この条件はあって無きが如く、「あの人」はやさしいに決まっているし、従って私の愛も揺ぎない、と言っているように聴こえます。しかしながら、聴き様によってはこれは最も困難な条件で、全くありえないことを前提に空想を遊ばせているだけのようにも思えます。
どちらにせよこれは取引の一条件というよりは、数学の必要十分条件のようなものであって、「あたし」にとって全てであり、世界と同じ大きさのものであり、その他は不要か不足なものである、と言っているかのようです。

どちらにとるかは聴き手に委ねられていると思うのですが、このゼロか一かに人生を懸けているような極端さは我々を不安を抱かせます。この曲の危うい、脆い印象はそんな必死な想いから来ているような気がします。

2008年11月23日 (日)

「十二月」

十二月ってそんなに悲惨な月だったったけ?と、疑問に思わざるを得ない位、これでもかと混沌と叫喚の情景が語られます。いつも以上に中島みゆきとの感覚のズレを感じる曲です。

「何万人の女たち」という表現を繰り返しながらも排他的な雰囲気を持つ曲で、何もかもが私に似ている、どいつもこいつも人恋しと泣いている、という部分は吐き捨てるような激しい嫌悪感あり、誰が何を思おうとも、みんな自由だと嘯く部分は、実際には誰も自分の気持ちを自由にできないという悲嘆と空しさがこもっています。

共感を以って自他を慰める曲ではなく、むしろ自分のような人間がたくさんいるということに同族嫌悪を漲らせながら、その一人に過ぎない自分にかえって孤独感を募らせていく曲であるように思いました。

2008年11月16日 (日)

「気にしないで」

「気にしないで」をここまで連呼されれば、気にしない訳にはいかない訳で、タイトルとは全く裏腹に自分の存在を懸命にアピールする、良く言えば健気で、悪く言えばくどくて諦めが悪い、そんな執着心あふれる曲だと思います。

ひどくちぐはぐな感じのする転調や、ところどころに出てくる字余りが、自分の鬱陶しさというか、多分「あの人」と「あたし」は気があってないんだろうな、ということを自覚しているかのようです。
そうやって頭でそのことを解っていながらも、あの人にとっていないも同然の存在である「あたし」に耐えられない、こうやってわざわざ「気にしないで」と言い放たなければ虚しさしくてやり切れない、そういう感情が渦巻いています。

抑えても抑えても、溢れ出てくる感情。その感情は蛇行しつつ流れ、やがてどこかに終着しなければばりません。最後の詞は溢れ出る自分の感情に自ら始末をつけているように感じました。

2008年11月 9日 (日)

「MEGAMI」

かつてないほどの優しい言葉に違和感を覚えつつ耳を傾けていると、最後まで優しいまま嫋々と消えていき、安心感よりもむしろ危うさを感じました。

何か理由があって優しい、功利的かつ合理的に優しい、というわけでなく、そのものが優しい。「受け入れる性」、「暖める性」とはそういう本然とでもいうか、性質そのもののことを言っているように思えます。
MEGAMIというよりBOSATSUといった感じもしますが、ローマ字で書くことでいわゆる一般的な「女神」のイメージより、その性質のみを象徴的に抜き出しているか、もしくは異質なもの、現実にはあり得ないとして描いているように思えます。

あり得ないもの、完璧な優しさを純然と歌い上げる様には、少し怖さを感じます。例えば疲れきった人が夢寐でみる幻のような、そういう儚さと危うさがあって、吐息をつくような歌声にこちらも不安感を抱いてしまうのです。
アルバム序盤とは思えない位、終わった感がある曲ですが、一体これからどうなってしまうのだろうと不安に思いつつ、次の曲を聴いてみたいと思います。

2008年11月 2日 (日)

「ふらふら」

特別深読みする余地はなく、歌のまま聴けば主人公の立場だとか、心情だとかがわかるようになっており、その点「ふらふら」といい条、大変客観的かつ的確に状況を説明している、そういう矛盾を孕んだ曲だと思います。

狸寝入りとでもいうか、酔ったふりでもしなきゃやってられない程惨めな立場にいる、そのことを解っている。周りの気遣いすら理解できる程、実は醒めている。
それなのに「あいつ」をあきらめられない、それが「ふらふら」であって、飲んだくれの足取りのことではなく、素面の状態で制御できない感情を表していると思います。

この曲に限らず、中島みゆきの曲はいつも裏腹で、この曲も酔拳のように酔っ払いの形を借りつつ、醒めた意識で一撃を与える機会を窺っているような感があります。
ふらふらと浮ついて楽しそうにすら見えながらも、実はどっしりと足は地についている、ついてしまっている曲だと思いました。

2008年10月26日 (日)

「野ウサギのように」

落ち着かない伴奏と共に綴られる尽きること無い恨み節、オープニングに相応しい、というかオープニングしか置き場所がなさそうなほど座りが悪い、非常にそわそわして落ち着きのない歌のように思います。

この歌は「あたし」は弱くて小さいウサギのようだ、という自己の矮小化と、「あんた」があたしの天地そのもので、私は髪の色まで変わってしまったという「あんた」の存在の巨大化を行っています。
「みんな あんたのせいだからね」という台詞はその心理的な構図を最も露骨に表現していますが、聞かされる側は野ウサギの弱さに同情するよりも、むしろその巨大な錯覚に唖然とし、戦慄します。

恐るべき愛の言葉をさりげなく、せかせかと繰り返す、非常にアンバランスで危ない曲だと思いました。

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