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2008年10月19日 (日)

「ローリング」

身の置き所の無さ、というのは中島みゆきの歌に共通する要素だと思いますが、この歌は「僕は荒野にいる」という身も蓋もないような表現で、それを端的に訴えていると思います。

飲み屋に馴染めず、時代に馴染めず、さらに人にも馴染めず、ただただ荒野にいる自分を発見するばかり、というのは余りにも淋しい情景にも思えますが、それに絶望するというよりは冷たい風に耐えているような、傷つきながらもどうにかやっていこうとする、そんな意思の強さを感じさせる曲でもあります。

常に安住の地を求めてさまよっているような不安を抱えつつも、自分が現在立つ場所をはっきりと自覚している。そんな曲だと思いました。

2008年10月12日 (日)

「クレンジングクリーム」

くどい人だと思ってはいたがここまでとは!
と、呻きたくなるほどの繰り返しが、繰り返すごとに高まる熱で自らと聴く人を追い込んでいき、最後の方は最早クレンジングクリームは関係ないような気がするほどに混乱し、取り乱し、嘆き、叫び、そして虚空に消えていく。そんな曲です。

筆者が想像するに、嫌なことがあった日に自分の顔をしげしげと眺める気にはならないはずですが、化粧を落とすためには嫌でも鏡を見なければならず、そうやって最悪の自分を直視してしまったときの感情の爆発を歌っているように思えます。

少しづつ化粧が剥げて嫌な自分が見えていくという歌ではなく、すでに目一杯の感情に最後の一滴を加えてしまったような、熱した油に水を注ぐような、そんな触れべからざるスイッチを押してしまったその後を描いた曲だと思いました。

2008年10月 5日 (日)

「仮面」

軽い調子の、一聴すると肩の力が抜けているように聴こえる曲はかえって辛辣で、ひどい言葉を投げかけていることが多いような気がしますが、この曲も容赦なく人を叩きのめす言葉が並んでいます。しかし、攻撃的というよりは、むしろ激しくよりかかっているような感じであり、抱きついてそのままもろともに海の底へ沈んでいくようなべったり感と、そしてやりきれなさが漂っています。

仮面とは「あたし」のことなのか、「あんた」のことなのかよくは解りませんが、確かにこの曲では素顔だとか真実だとかそんなものは一個も見えてなくて、むしろ何も見えない、何も見られていない、それなのに心ばかりは未だにとらわれているという一点、そこに感情を集中しているように思えます。
虚構そのものの愛に身をよじっているような、そんな嘆きと虚しさがタイトルにこもっているように感じました。

勿論、辛辣な言葉は仮面で、本当はあなたを愛しているのよ、と言う風にも解釈できますが、本当か、仮面か、というところは重要ではなく、やりきれない愛が報われない愛がただひたすら「あたし」を悩ませる、そういう心そのものを歌った曲だと思います。

2008年9月28日 (日)

「黄色い犬」

「Yes, I'm Yellow」なんて言葉を見ると、反射的に人種差別を歌った曲かと思ってしまうのですが、それは当たらずとも遠からずで、この歌には偏見への反発と、偏見を取り除いたときに残る自分は何者であるか、という自問があるように思います。

あたしの全てに惚れたという男たち、街の顔役とタイ張るつもりで言い寄ってくる男たちを「何ンにもない女でも 愛してくれますか」と蔑み、突っぱねつつも、何ンにもないあたしとはつまり何なのか、あたし自身が誇るべき自分というものを見出していない様子が見受けられます。
後楯やら化粧やらが消え去った後のありのままの「あたし」、何ンにもない素っ裸の「あたし」、黄色い犬とは何者なのか。少なくとも黄色い犬のあたしを誇らしく思う、という風には一文字も書いていなくて、Yesと言いながらも素晴らしいとか好ましいとかいう意味での肯定していないことは明白です。
むしろ虚飾を取り除いたあたしなど単なる黄色い肢体に過ぎない、と極端に自己を卑下しているようにも見え、何もかも―自分とは何かを考えること―も放棄して、「こんどの男」に委ねてしまっているようにも思えます。

Yellowとは、黄色い犬とは何なのか。勿論、歌の中で明確に結論が出ているとは限らず、筆者が思うにおそらく「あたし」にもはっきりとした正体は掴めていなく、虚飾ばかりを自分のように思われることへ反発と、しかし虚飾が落ちれば単に体が残るに過ぎない、そんな自分への皮肉な気持ち、まだ捨ててはいない期待などが混ざり合った、そういう気持ちを表す仮の姿であり、不安感や悲しみ、憎しみがこめられたごく感情的な象徴であるように思います。

自分で自分の虚飾を取り除く作業は相当な覚悟が必要で、時に絶望的な気分におちいることもあるかと思います。この歌の「Yes, I'm Yellow」にはそういう痛みと、痛みが生み出す陶酔感が混ざり合って、妖しいほどの凄みがあると重います。

2008年9月21日 (日)

「ミュージシャン」

見果てぬ夢と限りない不安にさいなまされる男と、それを励ます女、という構図で進む曲ですが、さりげなく男女の相反を描いているように思います。

文脈を見る限りは、この歌の主人公は既にミュージシャンとして何年もやってきた人で、傍からみればむしろ夢を叶えた人のようにも思えます。
そんな人が今さらというかここに来て弱気になって、12の頃は野球選手になりたかっただの、夢の中でマウンドがどうこうだとか、筆者ならずとも「さみしいことを言わないで」と殴りたくなるような気持ちになるでしょう。
が、その「さみしいことを言わないで」はあくまで男側の視点であって、筆者は主人公を殴りつつも、その弱気と身勝手を理解することができます。
身勝手とは「カウントが流れ出すと-」部分で示唆されることで、この歌の主人公において夢と生活を天秤にかけたら夢が重いことは明らかであって、悩みながらも結論は既に出ているのです。

一方、この歌で男の話を聞いているはずの女は、これだけの愚痴を聞かされていながら尚更優しく男を励ましていますが、どことなく励まし方に根拠がないというか、決して男の悩みを理解していない、或いは理解しても納得はしていないように感じます。
「何処でもついていけるものよ女は」は女の視点であって、励ましながらも決して身勝手を許してはいない、露骨に言うなら、「夢を追ってもいいけど、私を捨てることなどできはしない」と言っているように思います。
この歌において女は男の理解者、という脇役的な立場でなくて、影の主人公とでもいうか、あくまで男と同じ重さを持った悩める存在であるように思います。

ミュージシャンには浮き草のようなイメージがありますが、この歌はその根がつかないということについて、浮き草そのものの悩みと浮き草を捕まえようとする者の悩みが両方畳み込まれているように思いました。

2008年9月14日 (日)

「泥は降りしきる」

泣き声のような歌と、とても湿っぽいアレンジ。極めつけは「泥は降りしきる」というタイトル(とサビ)。誰がどう見てもドロドロのはずの曲ですが、筆者はむしろ爽やか、は言い過ぎですがどこか割り切っているような、もうあきらめがついているように感じました。

これは筆者が冷たいだけかもしれませんが(実際のところこんな調子の人が側にいたら最早放っておくしかないと思いますが)、この曲はあまりにストレートな物言いで、愚痴ることに全く躊躇なく、例え路面状態が最悪にせよ確かにハイウェイを駆けるような思い切りが感じられるのです。
つまり、「あたし」はある意味では吹っ切れていて、敢えて落ち込むとこまで落ち込んで、それで最後にしようとしている、そんな風に感じました。

全力で愚痴る。そんな不思議な爽やかさがあるような気がします。

2008年9月 7日 (日)

「土用波」

土用は季節の終わりの期間を指す言葉で、当然ながら愛の終わりを意識した歌だと思います。

この歌における「波」とは無論あの海辺に打ち寄せる波のことを言っていますが、波のもつ基本的な性質である果てしない繰り返しや、時に全てを攫う圧倒的な力など、運命とでも呼ぶべき抗し難い力も暗示していると思います。
「土用波」にはただ終わっていく運命の前に何も出来ずに立ち尽くすのみの虚無感、いっそ全て攫われてしまえ、という自暴自棄の気持ちがあるように思います。
特に「流れてしまえ 立ち停まる者たちよ」は攻撃的な言葉ながらも自身は何もしない、できないという無力さ、歯噛みするような腹立ちと悔しさとがあり、「地震でなにもかも壊滅しないかな」みたいな、自分をも対象にした一種絶望的で呪詛的な気分に支配されているように感じました。

無理に前向きな意義を見出すこともないのですが、季節は終わり、また始まるということで、何もかも攫われた後に再び新しい愛が始まることを期待または示唆しているようにも思えます。そう意味では呪詛ではなく、始まりへの希求の歌であるかもしれません。

2008年8月31日 (日)

「御機嫌如何」

言わでものことというべきか、「あなたを忘れました」などわざわざ宣言するあたり、本当にあなたのことをすっかり忘れたわけではないことは明白で、かといって「立ち直れる」、「嘆いていない」という言葉も全くの嘘ではなく、あなたのことを忘れかかっている、というのもまた事実であるように思います。

筆者が思うに、この曲は大変微妙な時期の心境を吐露した曲で、あれほどの想いが溶けていく、立ち直れてしまう、ということが自分がひどく冷たい女であるように思えて、かといってどうすることもできなく、ただ日々を暮らしていく、それが普通であるはずとも思える。そんな複雑でとりとめもないような感情が綴られていると思います。

「御機嫌如何ですか」はあなたはどうですかと問いかけると同時に、自分はいったい何なんでしょう、という自己への疑問も含んでいるように思います。短い定型的なあいさつ言葉にも関わらず、わずかに残るあなたへの気持ちや、忘れかかっている自分への戸惑い、ただ暮らしていく虚しさと淋しさなどが全てこめられ噴出して、非常に印象的な響きを残します。

「涙で濡らした切手を最後に貼ります」は、文字通り最後の涙を以って気持ちに決着をつけていると思います。と、同時に最後の最後まで残る未練を表しているようにも思え、やっぱり複雑な歌なのだな、と思いました。

2008年8月24日 (日)

「湾岸24時」

「湾岸24時」なんてTVドラマのようなタイトルですが、そのタイトルに相応しいダイナミックな曲の展開とドラマを感じさせる歌詞の進行を持つ曲です。

大半はサビの繰り返しで、激しい未練と後悔をエンドレスに繰り返す曲、と思えますが、同時にどことなく今の状況をあきらめている、というか既に規定のものとして受け入れているようにも聴こえます。
例えば、「こんな筈じゃない時の流れに変えて」は「流れを」ではなく「流れに」なので今の流れはむしろ「こんな筈の」流れであることを示唆しています。また、そんな細かいところを気にするまでもなく、この2人が既に終わっていることが容易に推察できるような歌詞になっており、本気で今の状況を変えようとしているようには聴こえません。

そんなわけで時の流れを停めて、変えて、と叫びながらも、そんなことはできないことも理解しており、あくまで自分の心に決着をつけて再スタートを切ろうとする、そういう心の過程を描いた曲ではないかと思いました。

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