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2008年6月15日 (日)

「肩に降る雨」

体温が低くなり過ぎるとむしろ寒さは薄れて代わりに眠くなってくるそうですが、この歌はその一歩手前の、ひどい冷たさに晒されている自分を発見している段階であると思います。

まだ感覚が残っている分、自力で自分を助けようとする意思や気力が湧きうる状態ですが、かといって、前途に希望を感じたり、まして人生に喜びや楽しみを見出したりするような前向き気持ちには到底なれず、心境的には最も「辛い」時期であると察します。
その苦しみに自棄になるわけでも絶望するわけでも、もういっそ何も感じなくなって眠ってしまおうとするわけでもなく、ただ歯を食いしばるようにして歩いていこうする様が描かれていると思います。

これは希望の歌でも絶望の歌でもなく、暗闇の冷たさの中で生の自分を感じた、その掛け値なしのリアルな自分をあるがままに見つめる、ごまかしを許さない自覚の歌であると思いました。

2008年6月 9日 (月)

「ノスタルジア」

「ノスタルジア」の繰り返しが印象的、というか聴き終わるとそれしか憶えていない程に不思議なインパクトを残すフレーズだと思います。

歌詞を振り返ってみると、結構ヘビーで切なく、「物語」と言い切ってしまっているのに未だ生傷のように疼いてる様子が覗えます。
その一方でどこか諦念しているというか、これはノスタルジアである、自らの心を突き放しているようにも聞こえます。

おそらく「ノスタルジア」に感じる肯定にも似た思い切りが、それまでの愚痴にも似た展開を断ち切って聴いているものはっきりとした印象を残すのではないか、と思います。
そういう意味で意外に前向きで、力強さがある曲だと感じました

2008年6月 1日 (日)

「ショウ・タイム」

TVの世界は虚構の世界、というのは数十年来変わっていないことで、虚構ゆえの華やかさと華やかな分だけの希薄さ、虚しさというのもおそらく数十年来変わっていないことと思います。
この局は「TVばっか見てると現実と虚構の区別がつかない馬鹿になるよ」と我々に忠告している……わけではなく、むしろ虚構の世界と一緒になって踊り狂っているような、何もかもどうでもいいような、そんな投げやり感が前面に出ているように思います。

歌詞は辛辣ですが深刻さは薄く、ちぐはぐとしたポップ感がどことなく滑稽な雰囲気を醸しています。そのポップさが頂点に達するサビは、ぬるま湯のような軽薄な世界を軽蔑しながらも、それに紛れている自分を感じたときに突き上げる虚しさを歌い上げていると思います。

2008年5月25日 (日)

「忘れてはいけない」

「忘れてはいけないこと」を守ろうとする人達を励ますようにも、むしろ忘れ去ろうとする人達を責めたてているようにも、さらに翻って言えばそんなものは無いのに無理やりある、と言い張って意地になっているようにも聞こえる曲です。

踏み砕かれても、いなかったも同じだとしても「忘れてはいけないこと」とは一体何か、気にはなるところですが、おそらくそれが何か、がこの曲の主題ではなく、否定されればされる程、自分の存在が薄れれば薄れる程、却って激しく燃え上がるものがある、あるから何だというわけではなく、とにかくそれがある、ということを歌っているのだと思います。

それは冒頭にも述べたように人の心の拠り所になるかもしれず、むしろ無いほうが楽かもしれず、もしくは単なる思い込みで、あっても無くても何の役にも立たないものかもしれませんが、今、こうしてそれを強く思っているという、生の気持ちをストレートに表現している曲だと思いました。

2008年5月18日 (日)

「月の赤ん坊」

昼は周りの明るさに紛れている月が、夜が更けるのと共に輝きを増していく様子は確かに孤独を剥き出しにしていくようでもあり、そう思って月を眺めていると何やらいたたまれなくなって、歌ったり叫んだりしなければやってられない気分になりそうです。

おそらくこの歌はそういう寂しさを以って「ねえ、寂しい?寂しくないの?」と何者へとなく問いかける歌で、子供のような透き通る歌声が耐え難いような寂しさをいや増しているように思います。

その極致が「月は子供に帰り」と言う歌詞で、更け行く夜と最高潮に達した寂しさを月に託す、というより夜と月が見せる幻覚のようにも思えて、聴いている者を寂しくも幻想的な不思議な気持ちにしてくれると思います。

2008年5月11日 (日)

「孤独の肖像」

ラグビーボールを持ってどこかに駆け出しそうな、あまりにもといえばあまりにもなベタな歌謡曲ノリで、最初のメロディーをひたすら繰り返してそのまま押し切る曲で、聴いた後にはがぶり寄り切られたような妙な爽快感すら覚えます。

心理だとか描写がどうしたとか書く気を起こさせない程の勢いを持った曲ですが、歌詞カードを眺めてみると延々繰り返す歌詞が一種の怨念を感じさせ、確かに「Forever」とよぶべき愛憎が織り込まれながら、どこまでも続いていくような錯覚を感じさせます。

それだけの曲、と言ってしまっていいような気がします。果てしなく踊るような爽快感と疲労感を得られれば、それが最もこの曲を楽しんだことになるのではないでしょうか。

2008年5月 4日 (日)

「それ以上言わないで」

穏やかな中に殺気あり、と書いたらまんまですが、「殺したかった」という歌詞が衝撃的で、それでいて諦念感というべき静謐があふれる不思議な曲です。

「殺したかった」は逆説もしくは音楽的表現であって、本当は命より心を欲しているということは理解できますが、そこまで好きなら諦めずにもっと足掻いてみたら、などと筆者は思ってしまいます。
或いはこれは諦めたが故に出てくる感慨であって、想念の上での遊戯というか、言ってしまえば過激で刺激的ながらも一種の愚痴に過ぎないようにも思えます。

多分後者が解釈としては妥当で、この曲は何がなんでも貴方が好き、という曲ではなくてまさに終わりを迎えるにあたって観念するその瞬間の葛藤を捉えた曲なのだと思います。
諦めという無常観のベースの中に、それと全く矛盾する「殺したかった」という究極の独占欲が想起する、静かな池に石を投げ込んだその一瞬の波紋と揺らぎを描いた曲のように思います。

2008年4月27日 (日)

「熱病」

凄まれている、と思いたくなるほどドスの効いた低い声で発せられる「熱病」のフレーズが印象的な曲ですが、若さと無謀を謳う曲は多分に若さと無謀からはかけ離れがちだと思います。
何分、若さと無謀とは行動によってのみ示されるものであって、それを歌にして振り返ってしまえば、どうしても青春を回顧しているような雰囲気になって、むしろジジ臭くなるのは止むを得ない部分があります。

が、この曲の強力なところはそれを恐れることもなく、「僕達は熱病だった」と過去を振り返っていることで、そこにはなりふり構わず過去を懐かしみ、現在を悲しみ、未来を求める疲れ切って自棄になった中年の姿が見えるような気がします。

この曲は青春を謳った曲のように見えて、実際はバーボンハウスで飲んだくれて騒ぐ中年とその迷妄を歌った曲のように思えます。最後の「熱病」のフレーズはそういう大人たちのため息のようなものなのかも知れません。

2008年4月20日 (日)

「あした、バーボンハウスで」

「あした」は不安定で不確定なもので、だからこそ根拠なく夢や希望を託すこともできるわけで、「あした」は大空を飛ぶ鳥の如く、自由で輝きに満ちた存在として歌われることも多いように思います。

 しかし、この曲の重苦しさと閉塞感はそういう軽やかな「あした」を否定するようで、むしろ重い現実の鎖をつけて、どこにも逃げられないように「あした」を拘束しているかのように響きます。無論それは「あした」への期待の裏返しでもあるわけですが、それと同量以上の猜疑心と恐怖心が容易に「あした」を信じさせません。この曲はそういう心の中の揺らぎの一極を捉えているように思います。

実際には「あした」を決めつけたところで拘束できるわけでもなく、その意味でこの曲はやはり未来のことではなくて、希望と絶望に揺れる今日のことを歌っているように感じます。
そんな人たちが集まり、希望と絶望が渦巻くの混沌の場がバーボンハウスであって、閉塞感と期待感の象徴として極楽通りのどこかで鎮まっているように思います。

2008年4月13日 (日)

「極楽通りへいらっしゃい」

辛辣で酷い言葉で迎えられて、まともに聴いたらへこんでしまいそうなのに、それでいて現実を忘れてしまいそうな幻想的な雰囲気で、夢の中にいるような浮遊感があります。

この幻覚感は、単に酒による酩酊なのか、涙でぼやけた現実なのか、それとも赤い灯りとやばい服の「あたし」が見せる目眩く世界なのか、多分それらが混ぜこぜになった束の間の逃避であり、ここから始まる音楽への期待であると思います。

まさに「極楽通りにいらっしゃい」の題名どおり、何かの期待を持って極楽通りの岐路に立ってしまった人達を迎える、入り口に相応しい曲だと思います。

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